捕虜となった班の先生が暗部たちに連れられて里へ帰ってきたのは、私が暗部に入隊してすぐのことだった。尋問による幻術で精神をかなり壊してしまったらしく、医療班曰く、回復に一体どれだけの時間を要するのかは解からないという。身内ですらその存在を認識されないというのだから、教え子の私が行ったところで何かが変わる気はしなかった。とはいえやはり心配なことに変わりはなく、病院へと急げば、先生の親族の辛辣な眼差しを喰らってしまった。それだけに止まらず、言われてしまったのだ。面会はやめてくれ、と。私を見てあの日のことを思い出させたくない、と。そう言われてしまえば私にはどうすることもできなかった。会いたいと思えど今は無理に会うのはやめたほうが良いと判断し、特に変わった報告が無い限り、こちらから動くことはしなかった。
一日でも早く会えることを願いつつも、日々の暗部での訓練は想像を絶する程の過酷さで、身体は限界すれすれだった。怪我をしても治癒力を高めるために医療忍術を施されることはほとんどなかったし、怪我をしているからといって患部を避けた訓練などある筈もなく、そこばかり狙われますます悪化する箇所もあった。疲労が極限を超えると食事が喉を通らなくなり、ふらふらになって次の日待機場へ行けば、修行をつけてくれる先輩に「点滴を打って来いチビ助」と言われる始末。そうしてまたふらふら歩きながら医療班の元へ行くと、まるで機械仕事のようにブスリと刺される点滴の針。どうにもこうにもこの感覚を好きにはなれなかった。なにせ点滴といえど針が針であるのには変わりがなく、三代目の判断で私の身体検査は年に一度になってはいたものの、針を刺され横になるとあの忌々しい検査の数々を思い出してしょうがなかったし、体内に入る栄養剤の冷やりとしたあの感覚も好きにはなれなかった。そうして少し回復したかと思うとすぐさま先輩に連れられ嫌という程扱かれる。修行は弱点である体術から始まり、瀕死寸前まで追い込まれてからが忍術の訓練が続く。力の入らない身体では上手くチャクラをコントロールすることができず、得意の水遁の威力もちゃんちゃら笑わせる程度だった。
疲労困憊でミナト先生の家まで帰る気力が無いときはいつも、三代目の家で過ごしては様々な話を聞いたものである。三代目自身の話、里の話、戦争の話、ミナト先生やクシナさんの話。しかし疲れのせいか、たいてい話の途中で意識を失っていた。爆睡しすぎて夢など滅多に見ることはなかった。
たまに任務終わりのクシナさんに出くわすと、疲れた身体に鞭を打って一緒に家路に着く。それも、夕飯の買い物を挟みながら。クシナさんの空腹が限界の時には、よくお菓子を買っては食べたものである。

「ミナトには内緒だからね?」

そう言って一口サイズのたい焼きを口に運ぶクシナさんは至極幸せそうで、「女の子をこんなにボコボコにするなんて」と事情を察しつつも先輩のことにぷりぷり怒っては、さらにたい焼きに噛り付くのだった。






















暗部での生活が始まって約半年、私のチームメイトはというと、腹部の傷が癒えても心の傷が癒えない日々が続いていた。身体は修行がしたいと訴えるのだが、心はどうやらそうではなかったみたいで、忍具には未だに触れることができなかったのだ。体術ではなんの問題もなく組み手ができるのに、印を組む一瞬を作ろうと忍具に手を伸ばす時、いつもそれ以上は動けなかった。刺された時の光景がフラッシュバックするのだろう。それでも必死に強くなろうと努力する彼の姿が私の心を打たない筈も無く、少しでも役に立てるようにと時間があれば足繁く彼の元へ通った。
班の先生の容態が安定しないこと、そして私が暗部にいることで事実上班は解散という形を取らざるを得ず、残された彼を枠の空いた他の班が受け持つ予定になったのだが、その受け入れ条件は当然といえば当然だが、忍具を中忍レベルまで扱えるようになること、であった。もちろん三代目はそれを今すぐにと無理強いはしなかった。厳しい条件を出すことであえてゆっくり前へ進ませようとしたのだ。物と同じように人の心も壊れるのは簡単だが、治すのには時間や良い環境がいくらあっても難しいこともある。だから期限を設けることはしなかった。私もそれが良いと思った。いつかまた違う形で一緒に班を組めたらと思うが、焦ってほしくはない。修行の相手にはいつだってなるし、とにかく彼のペースでゆっくりとトラウマを克服してほしかった。




*



鵐に雨が降る日のことだった。こんなにも酷い雨だというのに傘も差さず、チームメイトが一人阿吽近くの川辺のベンチに座っていたのは。ほんの悪戯心から、驚かすつもりで後ろから肩をトンと叩いてやると、彼はこちらに振り返って情けなさそうな笑みを浮かべた。疲れからだろうか、うっすらと隈が見える。バケツでもひっくり返したように彼は全身びしょ濡れで、もはやなんの意味もないかもしれないが、そっと傘を翳すと小さな声で「サンキュ」と返ってきた。
沈黙が雨音を際立たせたころ、彼の虚ろな瞳が動いた。

「・・・あいつ、紙風船好きだったよな」

その視線の先には、雨と土の跳ね返りでどろどろになった汚れた紙風船。そう、死んだ私たちのチームメイトは紙風船が大好きだった。これが一番妹が喜ぶんだ、とくしゃりと笑っては修行の合間に遊んでいたし、駄菓子屋に寄った時は駄菓子よりも紙風船を買い込んでいたぐらいだ。彼の家はあまり裕福なほうではなく、仕事で忙しい両親がいつも申し訳なさそうに置いていくのがこの紙風船だったようで、それを妹と一緒に膨らませて遊ぶのが下忍になるまでは日課だったらしい。

「・・・俺、強くなりたいんだ、なりたいのに」

泣き出しそうな悲痛な声音が雨音と共に私の耳に響く。

「頑張ってるよ、だからお願い、急ごうとしないで」
、でも俺は」
「そばにいる。私も一緒に強くなるから、だから・・」

彼の目から一粒、涙が零れた。言いようのない切なさに駆られて、そっとその涙を指で拭ってやると、彼は少し驚いたような顔をしてまた眉尻を下げて笑う。

は強いな、ほんと、お前が同じ班で良かったよ」
「私だって」
「・・・あ、泣いたこと誰にも言うなよ。それじゃあな、風邪引くなよ」

彼は足元の泥だらけの紙風船を躊躇うことなく拾うと、すっくと立ち上がり雨の中歩いて行った。それを引き止める力は私には無かった。風邪引くなよ、なんてどっちがだ、と思った。彼の姿が見えなくなるまで、いや、見えなくなってからも、が正しいが、動く気になれず雨で人気も少ない通りをただじっと眺めていた。
暫くの間そうしていると、一層雨脚が強くなった気がした。遠くの通りが霞んで見え始め、大きな風がこんな天候で早々に店仕舞いした店のシャッターにぶつかる。その音にはっと我に返り、いい加減帰ろうと歩み出して数歩。目の前からやってくる随分と久方ぶりに目にする男に、また足が止まってしまった。あれは。あれはあの。気が付くだろうか。気が付かないだろうか。気が付いて止まってくれるんだろうか、それとも気が付いても知らん振りするんだろうか。思い返してみれば私にはこの男とまともに会話した記憶がなかった。いつも頭をぶっきらぼうにガシガシされるだけ。気付いてもらったところで一体何を話せと言うのだろう。それならばいっそ通り過ぎてくれた方が良いのでは。そうしてああでもないこうでもないと考えているあいだにも、雨でもしっかりと映える銀髪の男との距離が縮まっていく。

(まずい、目が、合った)

地面でも見ているんだったと後悔してももう遅い。緊張で心臓がばくばくと鳴るのに、視線を逸らすことができない。あと数歩、あと数歩で、目の前に。

「あれ?お前、先生のところの」

ああ、ミナト先生、私、どうしたらいいんでしょう。


「最近見ないと思ったけど、お前今何してんの?」

彼が私に向かってこんなに長い言葉を喋ったのは初めてだ。見ないと思った、それは私のことを少しでも記憶の片隅に置いていたということだろうか。警戒心が少し解けた気がするが、やはりこの威圧的な視線に背筋が落ち着かない。前に会ったのはまだアカデミーに居た頃だった。その時から彼は大分背が伸びたようだし、物理的な威圧感も比例して増したようにも思えて余計に落ち着かなかった。

「だんまり?」

上手く喋れずにいると彼はふうと息を吐き、私の傘の先を少しだけつまみ上げた。瞬間、はっきりと視界に入る彼の顔。どきりと何かが背中を駆け抜けていった矢先、口布にうっすらと唇の形が浮かび上がり、無性にそれをおろしてみたい感覚に襲われた。そんな恐れ多いこと出来る筈もないのだが。
雨で湿気が満ちていたせいか、普段天を向く銀髪も今日はどことなくしんなりとしていた。

「ミナト先生に本返そうと思ってさ、・・・、だっけ?お前も帰るの?」

こくり、と頷くと彼は脇に抱えている透明なビニール袋に包まれた小難しそうな本を抱えなおし、通りを右に曲がりすたすたと歩き始めた。
一緒に行こう、とでも言っているのだろうか。先を行く彼の背中を立ち止まったままじっと見つめる。

「ほら、行くぞ」

振り返って彼は私の名前を呼んだ。その目は相変わらず鋭いというか、色々なことを見透かされそうというか、お世辞にも優しいとは言えなかった。けれど先生がいつだったか彼を怖くないよ、と言っていたのが何となく今は理解できる気がした。
早足で彼の一歩後ろに付けて歩く。傘のおかげで近くになり過ぎない距離が丁度良かった。

「あの、カカシ、さん、カカシ、くん、いや、カカシ、さん」

オビトくん、リンちゃん、私は二人のことをそう呼ぶのだから、はたけカカシもカカシくん、が正しいような気もするが、「くん」をつけるにはあまりにも私と彼の距離が遠すぎて。だからといって「さん」もそれはそれでどこか違和感を覚えて仕方がない。傘から顔を覗かせた銀髪の彼は、少しだけきょとんとしていた。

「いいよカカシで」

それだけは絶対に違うと思いながらも、その目でじっと見られると何も言い返せない。本人はそんなこと思っていないだろうが、私からしてみれば蛇に睨まれた蛙の図、だ。どうしてこの人の前では堂々としていられないのだろう。地面を見ながらとぼとぼと歩けば、水溜りに自分の情けない顔がゆらゆらと映った。

「・・・その、えっと、落ち込んでる仲間に、してあげれることって何か、ありますか」
「どーいうこと?」

私は班がバラバラになってしまった遠征任務のことを端的に伝えた。仲間を一人失ってしまったこと、班の先生の復帰もままならないこと、とりわけ、トラウマを負ったあの彼のことを。この人は先生の教え子だし、この年で上忍昇格も間違いないと言われている天才であるし、オビトくんとリンちゃんという仲間も健在で任務に当たっている。先生には及ばずとも私などよりはうんとうんと経験豊富な彼なら、何か良い助言を与えてくれるかもしれない。そういう期待を孕んでいたというのに。返ってきた彼の言葉によって、その思いは一瞬にして切り裂かれてしまったのだった。

「あのさ、このご時勢気を抜くのは駄目なんじゃないの、それに腹を刺された奴だってアカデミー生じゃないんだから少し考えれば解かることだろ」
「え・・・?」

驚愕だった。まさか、こんなことを言われるとは。
先ほど描いた彼への期待が割れた硝子のように砕けて壊れていく。

「何よりも里から一歩でも出る任務に対して忍との戦闘を想定しないなんて、その先生隊長としてどうなの?」

またも強烈な一突きだった。鋭利な刃物のような言葉を胸に食らい思わず傘を落としそうになる。言われたことが強ち間違いではないからこそ、余計に辛く身に染みる。こういう当たりの強い物言いに慣れていないわけではなかった。とはいえ彼に対して勝手に思い込んでいた先入観も確かにあった。先生の教え子だから、きっとどこか先生の持つ優しさだとか誠実さだとかがあるのだろうという、そういう勝手な思い込み。とはいえこれが所謂「優秀な忍」の判断なのだとしたら、あまりにも、あまりにもこれは。

「でも、ずっと一緒に頑張ってきた仲間なのに、そんなの・・」
「・・・任務も全うできないのに仲間?忍に感情なんて、余計なだけでしょ」

今までで一番冷酷な目つきで一瞥された。殺気に似た嫌な雰囲気に思わず身体が戦いてしまう。数秒の沈黙の後にため息を付いたカカシは、今度は私を気にかけることもなく足早に歩いて行ってしまったのだった。
ミナト先生は彼を怖くないと言った。とても信頼しているようだった。でも私にはそんな風には見えなかった。怖くて怖くて仕方なかった。けれども―…。

(あなたをそうさせたのは、なんだったの?)

彼の見えなくなった通りが急に広く感じられた。残された私の耳には、それはそれは大きな雨音だけが響いていた。
















(2014.11.9)
(2016.3.7修正)               CLOSE