消毒液の匂いが鼻をつく。気が付いたらそこは病院だった。虚ろな目をゆっくりと動かせば、横にはミナト先生が座っていた。私と目が合うと先生は「良かった」と胸を撫で下ろし、にこりと微笑みかけてくれた。ああ、私の大好きな先生の笑顔。一言でもいいから返事をしたかったのに、何も言葉が出てこない。その代わりにただ嗚咽することだけしかできなかった。この流れゆく涙が生きていることに対してなのか、愛しい人との再開の喜びに対してなのか、はたまた死んだ仲間を悼む気持ちからだったのか。そういう理由を充てられる程頭は回復しておらず、ただ訳も解からず泣きじゃくった。そうして私には一時間にも感じられるぐらいに―実際それが何分だったのかは分からない―涙を流した後に、言葉として機能しないような濁音と掠れた声で「先生」の四文字を必死に呟けば、先生は私の手を力強く握り締めるて、もう片方の手で頭をそっと撫でてくれた。

「ぜん、ぜ」

今までに起きた様々なことがフラッシュバックする。酷く背筋が凍った。もう片方の手で先生を掴もうと必死に伸ばすも、届かずにただ宙を舞うばかり。そんな私の身体を先生は壊れものを扱うかのように優しく起こしてくれた。だというのに、起こされた瞬間私はありったけの力で先生に抱きついていた。今まで伏せっていた人間とは思えない程の力で。とめどなく流れる涙は先生の服にどんどんと吸収されていく。赤子をあやすように背中をさすられると、さらに涙が出てしまうのだから困ってしまう。何も言わずにただ力強く抱きしめ返してくれる先生の腕の中が心地よくて、しばしの間泣き続けるとどうやらまた眠りに落ちてしまったらしい。気が付いた時には見慣れた部屋のベッドに私はいて、窓辺から差し込む太陽の光が部屋を燦々と照らしていたのだった。



*



腫れぼったい目を擦り、部屋着のまま居間へ行けば、テーブルの上には狐色に焼けたトーストと、目玉焼きとソーセージと野菜の乗った皿が置かれていた。時計の針はまもなく正午を過ぎるところで、今日が何月何日の正午なのかという疑問は、奥の台所に立つエプロン姿の先生によって奪われてしまった。私の気配に気が付いたのか、先生は振り返ると「おはよう」といつもの笑顔と調子で言う。こちらを向く瞬間に靡いた先生の髪が、陽の光に照らされてきらきらと輝いていた。普段ならば任務の筈なのに、今日は家にいてくれている。私がそうさせてしまったのだという申し訳ない気持ちよりも、一緒にいてくれることの嬉しさの方が、里の皆や先生の班員には悪いが何倍も強かった。と、思ったのだがこのご時世だ。そんな甘えは許されたりはしないのだろう。きっとたまたま今日が休日だったに違いない。でもそれでも良い。傍に先生がいてくれるなら。そこにはどんな理由も要らない。

「目玉焼き、ちょっと焦げすぎちゃったかな」

「クシナのようにはいかないね」と続けて先生は苦笑いしたのだが、私にとっては、そんなもの関係なかった。私を思って作ってくれた料理だ。焦げていたって最高に美味しいに決まってる。優しく背中を押されるままに食卓につき、いただきますと二人で合掌した。まだ節々が痛かったせいもあり、食欲はあまりなかったが、愛情の籠った先生の料理だけは不思議と身体が欲している気がした。箸で一口。少々焦げた目玉焼きに手を伸ばす。口に含めば途端焼き目側が舌に乗り、苦い味が広がった。白身も黄身も硬く、もそもそとしていたけれど、嬉しさに涙が零れそうだった。そんな私を見て先生は「はは、美味しくないよね」と眉を寄せて困ったような顔をするから、全力で否定したのは言を俟たない。

「クシナお姉ちゃんは?」
「ん、任務だよ」

近場の任務だから三時ぐらいには戻るということを、口をもごもごさせながら先生は答えた。

「・・・先生、私」
、まずはちゃんと食事をすること」
「でも、せん、んぐ、」

「先生」と言いたかったのに、再度口を開いたところにトーストを突っ込まれてしまい、続きが憚られた。言われるがままに食事を取ることに専念するも、事の経緯を聞きたくて仕方ないという焦る心。自分の愚かな行為を懺悔したいがためにあまり咀嚼をすることなく飲み込んでいると、「病み上がりなんだからゆっくり食べなさい」と叱られてしまった。それからしばしの間、気まずい沈黙―多分私が一方的にそう思っていただけだが―が居間の空気を重くしていたような気もする。



*



「さて」

食事を終え、片付けも終えると先生は例によって縁側に腰を降ろす。それまで金魚のフンのように無言で背後にくっついていた私も、先生の横にちょこんと腰を降ろした。すると先生の手が私の首元に伸びてきて、そこからするりとお守りの紐を引っ張り出すではないか。一体これがどうしたというのだろう。つられて私もお守りに目をやると、先生は何かを呟き手に集めたチャクラをお守りに翳し出した。僅かな光を放ちながら、何かの模様が刻まれていく。

「これ、もしかして先生の」
「そ、飛雷神の術式。ももう一人の忍だから、こんな風に甘やかすのもアレなんだけど、ね」
「・・・先生が、助けてくれたの?」
「物理的にはね、でも教えてくれたのはクシナなんだ。の腕にあった封印には、解けた時術者にそれが分かるような仕組みがあってね」
「二人が、私を守ってくれたんだね」

ほろり。
大粒の滴が零れ落ちた。

、君は至って普通の女の子だ。ただ、君が持つチャクラは善からぬ者からすればどんな手を使ってでも欲しいものなんだ」
「・・・」
「尾獣の話を覚えてる?勿論尾獣だけじゃない、戦争になれば、チャクラの切れない君は脅威になる」
「・・・う、ん」

先生の言う意味は嫌という程理解できた。忍術に必要なチャクラは基本的に限界がある。どんなに優れた忍といえど限界値以上のチャクラを使用すれば、その先に待つのは死のみなのだ。だから条件付とはいえいくらでもチャクラを持っている自分は奇異なのだ。決して人並み以上のチャクラを誰かに―ましてや敵国に―晒してはいけない存在。

「・・・それからの先生は、匂いの痕跡が里の外に伸びていたから捕虜になった可能性が高いと後続部隊から報告が入っていて、三代目が暗部に追跡させている。と一緒にいた子は何とか一命を取り留めたから、意識が回復したらお見舞いに行ってやるといい」
「え・・・!」

そうか、生きていたのか。腹部の出血量から見て駄目かもしれないと思っていた。けれどどうにか生きていてくれた。それに先生もまだ死んだと決まった訳ではない。そのことが分かるだけで、もう、それだけで。
また一粒、そして一粒と大きな雫になったそれが零れ落ちた。それからはほぼ私の独白だったと思う。昨日遭ったこと、そして心に思ったこととをつらつらと。朝家を出てから記憶が度切れるまでをひたすら喋り倒した。その途中でクシナさんが帰宅した。縁側に座り、ただならぬ空気を醸し出す私たちを見つけ、事の次第を察知したのか足音も立てずに部屋に荷物を置きに行くと、茶菓子を片手に私の横に腰を降ろし、先生同様優しい眼差しで私を見守り頭を撫でては吐露する言葉を聞いてくれたのだった。
班を編成してまだ日が浅かったとはいえ、私たちの班には確かな信頼が生まれていた。時には喧嘩もしたけれど、お互い切磋琢磨し合える仲だったのは間違いない。班の先生はそんな私たちを見守ってくれたし、行き詰まれば解決の糸口を与えてくれた。褒める時にも叱る時にも、愛と熱意を込めてくれた先生は私たちの絶対的なシンボルだった。忍との戦闘は何回か経験したが、今回のように不意をつかれ襲撃されたは初めてで、仲間の死を経験したのもまた初めてだった。死を悼む暇すらないのが現実で、これが忍の世界なのだと痛感した。

後続部隊によって回収されたチームメイトの死体は修復と防腐処理のため、木の葉病院の死体安置所へ運ばれていた。葬儀は明日の昼に行われるらしい。毎日何人もの殉職した忍たちが運ばれてくることもあり、一括で行われるのだそうだ。何もかもがあまりに急すぎて、呆気ない気がした。仲間が死んでしまったことも、私が生きていることすらも。生きとし生ける者全てが幸せであれば良いのに。御伽噺ですら誰もが幸せな世界は存在しないのに、こんなことを願ってどうなるというのだろう。幸福の裏には不幸があって、笑顔の裏には悲しみがある。その尽きることのない誰もが抱く切なる願いは、一体この世の何処に確固たる形として存在しているのだろうか。

しばしの沈黙の後、先生が口を開いた。

。三代目からの提案なんだけど、君を暗部に置こうと思うんだ」

アカデミーで暗部の話は聞いたことがある。暗殺を専門とする組織。様々な理由からそこに属するものがいるというが、正体は明かさぬ闇の世界。そこに私を入れたいというの申し出には。どんな意図が隠されているのだろう。クシナさんの施してくれた術式を破ってしまったからだろうか。このチャクラを公にしてしまう訳にはいかないからだろうか。それとも私が弱いからだろうか。あまり良い理由が見つからない。けれど先生や三代目はいつも信念の揺らがぬ人たちだ。きっとなにか私にとって意味のある理由があるのだろう。
それならば、と思った。誰もが抱くあの願いの終着地が何処に在るのかは解からない。でも生きている私がそれを探すのを辞めるのはどこか違う気がしてしまうから。いつの日か大切な人たちをこの腕で守っていけるように。この二人を守れるように。この二人の愛を守っていけるように。そして二人が守りたいと思うものを、私も守れるように。強くなりたい、どこまでも。強くなりたい。胸を張って生きていくために。

そう心に誓った。















(2014.11.9)
(2016.3.7修正)               CLOSE