予定通りにとの任務を終えた帰り、カカシはわき目も振らずミナトのいる執務室へと向かった。あまりの速度に景色が線の重なりのように過ぎていく。その相貌たるや、顔の半分を覆い隠すマスクの上からでも分かるぐらいに平生ではなく、とにかく普段冷静な少年にしてはやけに取り乱しているのが分かる。ノックもそのままに無遠慮に扉を開けると、彼は乱れた呼吸のまま大幅で歩を進めるのだった。

「先生ッあいつは一体・・・」

四代目火影を前に「先生」という名称で呼ぶのはどうにも憚られたのだが、泰然自若でいられない時、カカシは決まって無意識のうちに馴染みある名で呼んでしまうのだった。そんな少年の動揺振りとは反対に、風のように澄ました顔のミナトは何も言わずとも起きたことの全てを把握しているかのごとく、汲んだ両手の上に顎を乗せ、至極落ち着いた眼差しで教え子を捉えた。

「カカシ、あのね」

そうして開かれた彼の口から紡がれた言葉は、俄かには信じられないような話の羅列ばかりで、聞いている側からしてみれば、空いた口が塞がらないというものだ。けれど実際カカシはその目で事実を先に見てしまったのだから、先の出来事が現実であると信じる以外にどうすることもできないのだが、それで気持ちが落ち着くのかと言われれば全くの別問題であった。












満月の夜、火の国の国境を越えて二時間ほど走ったところに、大規模な戦争の跡地があった。そこでは木々が薙ぎ倒され、植物の剥げた大地が露わになっていた。そのうえところどころにクレーターのような窪みがあり、クナイや手裏剣の破片が無数に散らばっている。粗方片づけが済んでいるとは言え、ちらほらと死体が転がるその光景は幾ばくかの不穏を感じさせる。そういう状況の中でカカシとは遺体の処理に当たっていた。遺体の抹消とは言えど、そうしなければならないのは暗部出身の者だけ。それ以外の遺体は持ち帰るのが原則となっていた。手練の集まる暗部には血継限界を持つ者もいれば、特殊な技を使う者もいる。死してなお秘密を解き明かそうと躍起になる他国の諜報部隊も多い。この闇の世界に属した時点で遺体は葬り去る、または火影の管理下にある墓地に埋葬するのが決まりだった。こんな世の中でなければ、そう、普通の殉職ならば、彼らとてその亡骸を抹消されることはほぼなかっただろうに。
―戦争で得た戦術や知識を、万が一敵国に奪われてしまったら。その万が一に備えて里は動かなければならないのだから、渦中の忍は「人に在らず」な存在とも言えよう。もちろんその命を下したのが三代目であろうと四代目であろうと、苦渋の決断だったということは忘れてはいけない。だがこうした重責を背負わねば成らない身の辛さをどう人は慮ったら良いのだろう。合致する言葉も気持ちもどこにもないようにカカシには思えた。

(こんな子供ですら、人の生き死にを知っている)

忍として生きる覚悟を決めた時から、不思議とそうした人間の精神はどんどんと成長を遂げるという。ある意味年相応でないから可愛げもない。十歳にも満たない少女の目に、この有様は一体どう映ったのだろうか。ふとそんな疑問からカカシが彼女の表情を窺おうとした時、突然遠方から舞い込んだ砂埃が二人の視界を襲った。どうやら不穏という感覚は間違いではなかったらしい。これは明らかにチャクラが練りこまれた人為的な砂埃だ。残党狩りか、それとも自分たちと同じように戦場の処理か、それは分からないが、こうして攻撃を仕掛けてきた以上戦闘は避けられないだろう。カカシは瞬時にと背中合わせになり、この悪条件の中の奇襲に最低限備えられるだけの体勢を取る。しばしの緊張のあとに視界がはっきりし出したかと思われた次の瞬間には、砂埃の間から無数のクナイが、その鋭利な刃先を鈍く光らせ飛んできたのだった。まずは様子見といったところか。それらは彼らがクナイで弾き飛ばせるぐらいには軽い。緊張を途絶やさぬよう、カカシは拳に力を込める。砂靄の間から不鮮明見える限り、敵は七人といったところで、彼にとっては敵の力量次第では処理しきれぬ数ではなかった。だがそうでない場合、千鳥を出すためによもや背に立つ少女を盾にするわけにもいくまい。戦況はあまり良いとは言えなかった。

(さて、どうしたものか)

ここに来るまでにといくつか話し合ったことがあった。いくら暗部がむやみやたらと自分のことを話さないとはいえ、連携が取れないことには話にならない。聞くところによればどうやら彼女は水遁を操るのが得意らしく、カカシにとっては非常に好都合に思われた。だがカカシの脳裏を「くれぐれも彼女のことを頼んだよ」と四代目のあの一言が掠めていく。守りながら戦えということなのだろうか。それとも今回の任務は何か特別な意味が込められたものなのか。どちらにせよ彼女を陽動にするのは可能な限り避けた方が良さそうだ。人を悩ますばかりのあの一言にカカシはをどうしたら良いのか悩んだものだが、どう考えても自分の後ろに下げるしかない、という答えしか出すことができなかった。とすれば千鳥を発動するタイミングはこの戦況において極めて重要だ。

、俺の後ろに下がるんだ」
「前に出ます!」
「馬鹿なこと言ってないで下がれ!」

そうこうしている間に敵の大地を蹴る足音が近づいてくる。土遁攻撃で足場を崩されたのを封切に、数人が一気に懐に入り込んでくるのを写輪眼とともにやり過ごし、再度間合いを取る。やはり敵は七人だった。この七対二という数的不利において、敵の出方は明らかに短期決戦だ。間合いを取らせまいと果敢に飛び込んでくる。こちらが子供だと分かってそうしたのならば、多少の隙を見せようとも早めにカタを付けてしまいたいのだろう。

(・・・まずいな)

土遁まで使われては千鳥も大した威力にはならないだろう。さてどうしたものかとカカシが冷静に戦況を読み込んでいると、後ろからふとのなにかを喋り出す声が耳に入った。だがその意味をカカシは全く理解できなかった。なにしろあまりにも唐突すぎたのだ、「水遁で溺れさせます」だなんて。溺れさせる?一体何を口走っているのだこの少女は。こんな開けた場所のどこに人を溺れさせるだけの水があるというんだ。チャクラを水に変えるにしたって、たかだかこの年の子供では大人を七人も溺れさせるほどの水なんて―…。
しかしここから誰が予想しただろう光景をカカシは―さらには敵国の忍たちも―目にすることになった。その光景はさながら天変地異そのものだった。
急にがカカシよりも前に踏み出したかと思えば、なんということだろう、印を結んだ後に口から大量の水を吐き出し、辺り一面を水で埋め尽くしたではないか。今まで目にしたことのないこの有様を一体なんと形容すべきなのだろう。洪水という表現が正しいだろうか、いや海のほうが正しいかもしれない。そう、彼女の目の前に海が現れたのだ。大袈裟に言っているのではなく本当にそのぐらいの量だ。そして驚くべきは荒波のような勢いの水に、敵国の忍がどんどんと飲み込まれていくことだった。果ては粘度でも持っているのか水はみるみる球状へと変化し、驚くべきかな、敵は彼女が宣言したとおり見事「溺れた」のである。
こうして一気に戦況を引っくり返したものだから、夢でも見ているかのようなその一こまに、カカシが呆気に取られたのは言うまでもない。

「・・・お前さ、なんなの」
「えっと、そういう感じ、らしいです」



*



ミナト曰く、は無尽蔵にチャクラを持っている、のだそうだ。正確に言えば「ほぼ」無尽蔵らしいが。そんな都合の良い話がある訳ないとカカシは思った。チャクラが無尽蔵だなんて、そんな無茶苦茶なことがあってたまるか、と。けれど原因がよく分かっていないのが実のところだった。度重なる検査の結果、どうやら月の満ち欠けと関係があるのでは、という仮説が立っているらしい。満月に近ければ近いほどチャクラは増大するみたいだが、その反対はどうやら違って、新月の日にだけチャクラがほぼ失わるようだ。それ以外は全く普通の人間と変わりないというのだから、いまいち掴めない話だ。
しかしその仮説通りなら、満月のために今日は彼女の力が最高潮で、あのように海といっても引けを取らないほどの水を操る技が使えたということなのだろうか、とカカシは思った。それ以上詳しくミナトは話をしなかったものの、カカシには彼が彼女を引き取った理由がはっきり見えた気がしたのだった。すなわち、はただの戦争孤児ではないということが、だ。あの特殊な力を秘めているが故に保護という形だったのかもしれない。なにせ忍にとってチャクラはその技量を決める生命線なのだから。無尽蔵ともなればそれは大きな力になり、戦争では大変重宝されることだろう。そのことを思えば先ほどの任務で敵の息の根を止めておいたのは正解だった。

「よく頑張ったね、カカシ」
「そんな。俺は、何も・・・」

今回この任務にミナトがカカシを宛がったのは、暗部で彼女を指導する忍に長期任務が入ってしまったから、という理由だった。その忍は暗部では彼女の事情を知る唯一の人間だというのだから、カカシはその代役といったところだ。とはいえ極秘事情であろう背景を思えば、彼にとっては自身が任命されたことはすなわち、信頼されている証とも取れる。だから別段悪い気はしなかった。そして任務前、ミナトが彼女について触れなかったのは何も知らないカカシを図る実験でもあったらしい。色んな戦術を考え常に第前線で働く教え子の、予想外の出来事が生じた際の判断を見たかったという。その観点からしてみれば、今回の任務、カカシはまるで話にならなかったといっても良いだろう。反対に彼女に期待されたものは実任務における経験を積むことであり、その期待通り、咄嗟の判断で敵を瀕死に追いやったのだから成果は上々だ。
頑張ったねと師は言うが―、と苦虫を噛み潰したような表情の教え子に、ミナトは目元を緩めて口を開いた。

と話でもしてみたらどうかな」
「話、ですか」



*



「・・・ここにいたのか」

今日の出来事は、カカシの咀嚼できる量を遥かに凌駕していた。そのどう消化したら良いか分からない気持を抱えたまま、親友に会うべく慰霊碑へ向かえば、深夜にも関らずその前に小さな暗部装束に身を包んだ少女が一人ぽつんと座っていた。そう、に間違いは無かった。

「カカシさん、お疲れさまでした」
「・・・お疲れ」

こちらを向くことなく彼女は慰霊碑を見つめている。横に腰を降ろして同じようにカカシも慰霊碑を見つめた。刻まれた親友の名が、雲の間から顔を覗かせた月の光に照らされていた。オビト、今日、不思議なことがあったんだ。届いているのかいないのか分からないその言葉が胸中を彷徨った。彼ならなんと考えるだろう。彼ならなんと答えるだろう。あの無邪気に笑い、誰よりも人の心の傍にいてやることができる彼ならば―…。


「はい」
「謝りたいことがある」

彼女はきょとんとした顔をこちらに向けた。

「随分前の話だけど、の先生と仲間のこと、悪かった」

刹那、彼女は目を見開いた、が、しかし直ぐにふるふると首を振った。カカシは改めて彼女を見るが、その瞳に彼女はやはり小動物のように映り、あんなにもの水遁を操った人間とは思えないのだから困ってしまう。

「冷たい目じゃ、無くなった」
「え?」
「私も少しだけど、色んなことが分かるようになりました」
「色んなこと?」

こくりと頷いた彼女はまた黙って前を向いた。
それを追うようにカカシも月明かりに照らされる石碑に視線を戻す。ズキンと右手が疼くのを感じた。様々な英雄の名が記された此処はどこよりも荘厳で、カカシの右手に重くのしかかる。

「あのさ」
「はい」
の話、してよ」
「え」
「嫌なら良いけど」
「え、あ、そんなことないです」

そうして彼女の口から出た言葉もまた、先ほどのミナトの言葉と同じく今までに聞いたことがないものだった。けれど信じがたいと思えど、目の前に彼女という現実があるのだからそのどれもが真実だと受け容れるより他はない。
カカシにはカカシの世界が回っているように、彼の知らないところではまた様々な世界が回っている。そうして世界は成り立っている。そのことに気が付けるようになるのには、案外膨大な時間がかかってしまうことなのだと、青年への過渡期の最中の少年は、長い一日を通して痛感したのだった。














(2014.11.9)
(2016.3.3修正)                CLOSE