グツグツ、グツグツ。
コンロに置かれた鍋から沸騰を知らせる音が上がった。は一旦火を止めて、普段よりも少し多目の鰹節を入れる。するとすぐに良い香りが彼女の鼻を掠めた。もくもくと立ち上る蒸気が、近くに置いてあったお玉を曇らせている。枯れ色の綺麗な出汁が出たところで鰹節を鍋から引き上げて、代わりにひと手間かけて素揚げにした一口サイズの茄子を鍋に放った。そして冷蔵庫から取り出した味噌をお玉に必要分だけ取り、鍋の中で器用に箸を使って溶かしていく。

「ん〜良い匂い」

彼女は改めてその香りを肺一杯に吸い込んだ。出汁は不思議だ。心の底から落ち着きがやってくる。毛布にくるまれているかのような安心感、と形容するのはもしかしたら過剰かもしれない。けれど、体に刻み込まれる出汁の香りは、ある種の故郷のように彼女には思えた。鼻歌まじりに、戸棚から出した鞠のような柄の飾り麩をいくつか放って、再び鍋に火を点ける。

「そろそろ帰ってくるかな?」


















女にだらしないとか、昨日はあの子だったのに今日はこの子だとか、女は選び放題だから使い捨てにしてるとか、マスクをしているのはとんでもない不男だからとか、出っ歯だからとか、実は老けた老人が化けているとか、最近任務で何人も殺してきたらしい、とか。
毎日毎日カカシについての噂は絶えない。一体どうしてそれだけの噂が立ってしまうのかというぐらい次から次へと舞い込むそれらは、もはやコメディだ。火の無いところに煙は立たずと言うが、彼の場合それだけでないのは確かである。忍としての実力も然ることながら、その見た目は誰が見ても整っている部類だと判断するだろうし、逆にマスクや髪の色のせいで年齢不詳なところもある。ともあれど傍から見れば欠点らしい欠点がなさそうなところから生じる嫉妬が生む噂もあれば、ただの好奇心が生むことも、実際彼に相手にもされなかった女が生む場合もある。要は彼は良くも悪くも注目されやすい人間、なのだ。
以前もどこかで会った忍の女がに小言をくれたことがあるが、生憎そんなくだらないことを言われて落込む程弱いメンタルを彼女は持っていなかった。そういうことで自分の価値を自分で落としてしまうから相手にされないのだ、と厚化粧に強い香水で身を包む女を酷く哀れに思うこともあった。少しでも人間の内面を見ようとしたならば、決してそんな悪態など吐く筈がないのだが、残念かなはたまた然るべきかな、そういった噂を立てる輩はみな相手の表面しか見ようとしないのだ。

コツンコツンと窓を軽く叩く音がした。コンロの火を止めてはリビングの窓へと向かう。ずっと台所にいたからか、リビングをやけに暗く感じた。部屋には月の明かりが差し込んでいて、その部分ばかりが浮き立っている。だから窓の縁にいる伝書鳥がよく見えた。
今日は折角の休日だというのに、この急な呼び出しが彼女気分を落としてしまう。とりあえず味噌汁だけは作っておこう。カカシが任務から帰ってきても平気なように。仕上げに入れる筈だった万能ねぎを鍋に放り込み、火を消したのを確認してから、彼女は忍服に着替えに寝室に向かった。皺一つなく整えたベッドの掛け布団は見るからに柔らかそうで、さあ包んでやるぞと言わんばかりに、これから外へ出る人間を皮肉に待ち構えているみたいだ。仲良く並ぶ二つの枕の両端にはこれまた二つの枕とは素材も形も違う正方形のクッション。それは去年のカカシの誕生日に、紅からプレゼントされたものだった。そうした小物が家の中にだいぶ増えたことを彼女は思いながら、クローゼットから必要なものを取り出し着替えると、足早に家を後にしたのだった。

日の落ちた外は思いのほか冷えていた。次の季節の訪れを微かに感じつつも、まだまだ冷えを伴う風にはぶるりと身を震わせる。足元に舞い落ちた枯れ落が彼女に踏まれてくしゃりと音を立てボロボロに形を失っていく。その欠片が再び風に乗れば、気ままにどこかへ消えていってしまった。
夕飯時だからか、辺りからちらほらとそんな匂いがした。体格の良いとび職たちの、「夕飯はなんだろう」とか「この妻子もちめ」とか、げらげら豪快に笑う声と共に他愛の無い会話が聞こえてきては、彼女の顔が綻ぶ。忍が里を守って生きていくということはすなわち、この人たちの生活を守っていくということだ。忍とそうでない者の間には生活にとても大きな差があるからこそ、彼らの笑顔を見ることができるだけで自分も温かさを分けてもらえる気がした。日々忍として生きている甲斐があるじゃないか、と、彼女は足並みをゆっくりにし、今しがた通り過ぎていったとび職たちの後姿が小さくなるのを見守った。
争いがあるから忍が忍として生きていけるんじゃないか、と唱える人が時々いる。それもまた真なのかもしれない。争いがなければ忍の仕事は大抵町の便利屋だ。けれど誰だって平和の中で暮らして生きたいのだから、いつの日か忍が完全に便利屋になることを願うのも、許されることなのかもしれない。
彼らがの眼から見えなくなった頃には、辺りは一段と暗さと寒さを増していた。このままぶらついていたのでは指定された時間に間に合わないと、彼女は印を結ぶと瞬身の術で火影邸へと向かうのだった。



*



「休みのところすまんかったな」
「いえ、お疲れさまです火影さま」

到着するとヒルゼンは大量の書類と向き合いながらを出迎えた。その姿はかろうじて堆く詰まれたそれらから覗き見えるといったところだ。それでも今は一息入れているところだろうか、煙管からぷかぷかと白い煙が上がっている。彼女は一礼すると、彼の拱きに従って執務机へと足を進めた。

「最近は情勢も安定してるからか、アカデミー生が増えたのう」
「そうなんですね」
がアカデミーにいたのがつい最近のように思えるのだから、時の流れは不思議じゃよ」

くゆらした煙越しに、まるで昔を重ね合わせるかのようなヒルゼンの瞳があった。あんなに小さかった―それこそ赤子の―がもう酒を嗜める年になるだなんて。きっとミナトとクシナがいたら大喜びしているのだろうことを思うと、年寄りはどうも辛気臭くていけないと彼はため息を吐く。

「このワシを分からずやと言っていたのが懐かしいの」
「やだ、そんなこと覚えてたんですか?」
「耄碌するにはまだまだじゃわい」

返事をしながらもいまいち彼の意図が掴めないは、その真意が知りたくて仕方がないといった風だった。まさか昔話をするために呼び出したのかとか、だとすれば急にどうしたのだろうとか、まさかその身に何かあったのではとか、不安すら覚えてしまう。

「そんな顔をするな」
「だって、なんだか・・・」
「寿命が縮むからやめい、今日呼んだのはちと人手が欲しくての。というのも、新生下忍班が少々多くなってしまったのだ」

ヒルゼンの言葉にはほっと胸を撫で下ろす。まさか死期でも悟ったのかとそんなことを言ったならばきっと、人を年寄り扱いするななどと怒られそうだ。

「・・・私、先生は無理ですよ、だって新月には」
「分かっておる。頼みたいのは上忍師ではなくその補佐じゃ」
「ほ、さ?」
「暗部と平行してという形にはなるが、どうだ、頼まれてくれんか」

上忍師補佐。それは最近新設された新たな役職だった。平和な世の中が続く今日、アカデミーの子供たちの数が急増した。戦時中のように多少腕が良ければすぐさま戦地へ向かわされるということもないため、忍になるための勉強がじっくりできるようになったのだ。そして整えられた環境下ですくすくと育った子供たちは、そのほとんどが留年することなく卒業していく。すると忍の卵、下忍も急増するというわけだ。一つ上の世代までは大体三班から多くても四班だったのが、今期卒業を控えた学年ではなんと九班新設されるという。それに引き換え戦争を経験した大人組はその絶対数が子供たちより少ない。そんなこともあり教師や上忍師は慢性的に不足していた。そのため今という時代は、後進の育成に人手が必要なのだった。
そんな補佐役の仕事はその名の通り補いどころと言ったところで、上忍師が不在の時の―このご時勢上忍師も個人で任務を与えられる時がある―代役が主な仕事だ。それと平行して重要なのが、細かなところまで子供たちの面倒を見ることだった。修行につきあうことや、班員と上手くいっているかどうか観察したり、上司と部下の中間に立つことでチームとしてより機能しやすくさせることが求められる。
補佐と一言で述べるのは簡単かもしれないが、サポート役はいつだって大変なものだ。その役目が自分に果たせるのだろうか、とは口を噤んでしまう。これまで暗部でも隊を率いるよりは個人で動くほうが多かった。もちろん自らの抱える秘密がそうさせるのでもあり、それゆえに特殊な任務ばかりが与えられていたからだ。だから自分の経験が、子供たちの指導に役立つのだろうかと懐疑的になってしまうのも仕方が無い。

「よい返事を期待しておるぞ」



*



執務室を後にすると腕を組んで壁に凭れ掛かっているカカシがいた。その手にはもちろん彼の愛読書があり、皺になってかなり痛んだ本の角がの目に入った。一体何度読み返してきたのだろうと思ってしまう。きっともはや暗記してるに違いないのに、それでも彼はその本を読むことを止めない。中身を見たことはまだ一度もないが、卑猥な本を読んでいる時の彼は至極楽しそうだった。
しおりも挟まず―ほらやっぱり中身を覚えてる、とは思った―本をベストの内ポケットにしまうと、カカシは彼女に微笑むと、帰ろう、と右手を差し出した。大人になっても一回りの違いは変わらないようで、その大きな手に彼女もそっと手を絡めると、自分のものとは違う温かさがじんわりと響くのを感じた。その手に一瞬だけ、今は亡きミナトを見出してしまったのはきっと、先ほどヒルゼンと話したことが原因かもしれない。

(先生は、やっぱり凄い人だな)

過去形にはできなかった。きっとまだ心のどこかで受け容れられていないのかもしれない。偉大な男の死を。
子供だった自分に世界をくれた人は、大きな愛を持っている。彼自身に対して。人々に対して。里に対して。私利私欲にまみれぬ聡明な人間だ。彼はいつだって笑っていた。役職の重責をものともせずに。皆が幸せに生きれるように、彼はいつも奔走していた。煌く金色の髪、澄んだ空の青をした瞳。彼の何もかもが自分の体を巡っている。少しでも彼のように生きれるだろうか。少しでも彼に近づけるだろうか。不安ばかりが胸を襲う。

「聞いてた?」
「まーね」
「・・・大丈夫かな」
「心配しなくてもならちゃんとやれるさ」

あ、なんかこの感じ記憶にある、とは昔を思い出した。そういえば、あの時は自分が反対の立場だったけ、と。当時不安を抱いてたカカシも最初はかなり戸惑っていたようだが、今は魅力的な教え子に出会えている。それを思えば補佐という立場がああだこうだと悩んでも仕方がないことなのかもしれない。

「二期か三期分?みたいだから、カカシの班の子も入ってるかも」
「へえ、それじゃ久々に任務が被るってことか」
「あ、確かに」

雷と水で相性が良いと思われた二人だが、暗部では班も別々、ツーマンセルを組んでいたのに至ってはもう十年も前の話だった。が里に戻ってきて以来何度か任務をともにしたが、その数もあまり多くは無い。お互いに公私混同する気はさらさら無かったが、目の届かないところにいるより近くにいることが出来るならそちらの方が何倍も良かったのは確かだ。カカシは上忍師になってから子供たちの生活に合わせて動いているため、朝から夕方までの仕事が多いが、まだ暗部に所属する彼女は不規則な時間で動いていた。すれ違いの日々も多いが、こうして上忍師補佐になるならば少しはリズムも合うだろう。嬉しそうなカカシの横顔を、が覗き見る。彼はなんて柔らかく笑うようになったのだろう。

「カカシ」
「ん?」
「・・・ありがとう」

私はあなたに救われたのだと。何もできない自分を待ち続けてくれてありがとう、と。その想いを込めて。
初めは冷たい目つきをするカカシが怖かった。でもそれがいつしか、一体何が彼をそうさせるのかという疑問に変わった。いつだって自分を責め、命を削る彼をどうにかして繋ぎ止めたかった。慰霊碑で語り合った日々のことは今でも鮮明に覚えている。今思えばそのどれもがゆるやかできらやかな、ヴェールのような揺蕩いだった。大切な人を失った自分の心がカカシとの会話で救われていくのと同時に、日に日に彼が多くを語るようになったことも喜ばしかった。心根の優しいカカシは誰よりも大きい。その存在も、その器も、その全ても。だからこそ彼は人一倍悩み、苦しみ、もがいたのだ。できることならこれからの未来に、素晴らしいことが沢山待っていて欲しい。忍としての人生だ。いつも不穏なものが付きまとうのは仕方ない。けれどもどうか、どうか、もうこれ以上。

「何よ急に」
「ううん、なんでも」
「・・・ま、なんだ。ありがとうはこっちの台詞」
「え?」

咄嗟にが横を振り向けば、カカシはなんだか照れくさそうな顔をしていたのだった。

「どういうこと?」
「俺はいっつもに教えられてばっかってこと」
「ん?・・・ん?」

カカシは右手にさらにに力を込めた。その存在を確かめるように。そして思うのだ。居場所とは、きっとこういうことなのだと。
前に進む決定打となったのは、新たに出会った教え子たちだが、そのきっかけを、そう、出口の無い迷路に光を差してくれたのは疑うこともなく、今横にいる彼女だ。思慮深く、慈しみに溢れた一輪の花。朝露が照らされてまばゆい光を放つように、彼女は自分にとっての太陽なのだ。どんなに朝を迎えても、衰えることのない光。彼女がいれば、色のない世界もそうではなくなる。たとえぼやけていても、不安に負けなくなる。立ち止まってしまっても、また進める気がする。いなくなってしまった人たちの思いを一つ一つ大切に紡いでいける気がする。だからそんな彼女と、歩いていきたい、伝えていきたい。
願わくば、彼女の元に、いつまでも。

「はは、ほら、腹減ったから家に帰ろう」

夜の研ぎ澄まされた空気の中で光り輝く星々が、二人の視界を覆う。きっと世界はこうして回っていくのかもしれない。いつまでも、いつまでも。それを思えば、冷たい風すらも心地良かった。そして、肌を撫で去るそれを感じながらカカシは思ったのだった。

人は皆、あまねく照らされているのだと。

















(2014.11.9 ありがとうございました!)
(2016.3.7修正/そのうち間を埋める小話作りたいです)              CLOSE