は俺に何を伝えたかったのだろう。「次に帰ってきたら」。そのあと一体どんな言葉を続けるつもりだったのだろう。引っかかりだけを残し、風のように彼女はいなくなってしまった。その後姿を追うことも、残り香を探すこともさせないままに。
それからの日々はとても淡々としていたような気がする。氷河期にでも入ったかのように世界は暗く、ぼやけていた。鮮明になるのは決まってリンが夢に出てくる時だけ。ああ、みんなが自分の前から、いなくなっていく。二度と手の届かない場所、二度と声の聞けぬ場所。「寂しい」だなんて子供じみている気がして口が裂けても言わなかったのに、どうしてあの時彼女の前で声にしてしまったのだろう。
俺から見れば、は眩しい世界の住人だった。自分とは住む世界が違うように思えたのだ。彼女はいつも愛に囲まれていた―というのは失礼かもしれない、ミナト先生やクシナさんの元で微笑む彼女とて両親を失っているし、班だって解体されている。慕っていた担当の先生の身内には冷たく当たられる始末だし、生きているチームメイトとだってこうも任務続きでは会えていないだろうし。でもそれでも、だ。自分にとって彼女はそういう愛の類の人間だった。そう、花初むような彼女の笑顔。彼女といると、自分の苦しい部分が浮き彫りになる。俺はそれを手放したくないのに、あいつときたらいつもそれを奪おうとしていく。それが嫌だった。頼むから俺をどこかへ動かそうとしないでくれ、このままにしておいてくれ。苦しさ以外のことを感じてしまうほうがよっぽど苦しいのだから。
だから忘れてしまいたかった。なのにそれをさせてくれないのもまた彼女自身だ。頭の片隅からいつだって彼女は離れてはくれない。クシナさんの護衛をしていた時だって、早く帰って来いと願ったのは子供の顔が見れなくなることに対してだけではなかった。自分がそれを望んでいたのだ。会いたいと思った。に。声を聞きたいと思った。彼女といることが自分の苦しみを和らげると身体が知っていたからだ。けどそれは所詮、まやかしだ。正しいことではない。だって自分にはそんな権利、これっぽっちもないのだから。














「カカシさん!」
「え?・・・え??」

意味深な言葉を残して出て行ったが里に帰ってきたのは、俺が二十歳になってまもなくのことだった。その頃には里もすっかりと様変わりしていて、暗部も世代交代といったところであった。なにせ下っ端だった俺が部隊長にまで昇進したのだから。
裏の世界での生き方にも慣れたとはいえ、心の空虚さは変わらなかった。未だにリンの幻影を見ては、吐き気と震えが止まらなくなることがしばしばあるし、父親を英雄だと言った親友の、自分に向けて放った数々の言葉を想起しては、自分の本当の居場所はあの時にしかないのだという情調に身を沈めてしまう。しかしそれと同じぐらいこの手に触れて去っていったあの少女の顔もまた、忘れられないのだった。
記憶の中の最後のは十歳だかの少女だった。しかし、目の前に現れた彼女は、その面影を残しつつも自分の予想以上の成長を遂げていた。手を振りこちらへと走ってくる彼女の姿はとても鮮明だった。自分を見ては瞳に恐怖の色を浮かべていた彼女が、まるで飼い主を見つけた犬のように近寄ってくるとは全く思いもしなかった。
一体どんな任務が彼女を待ち受けていたのかは分からない。しかし六年だ。どれほど過酷だったことだろう。昔のように慰霊碑の前で二人、腰を降ろして話をする。懐かしさすら感じさせるのに、時間の経過をまるで感じさせもしない不思議な感覚だった。あの頃と何も変わっていないように見えるのに、内実は真逆だ。慰霊碑に刻まれた名前は何倍にも増えたし、九尾事件で薙ぎ倒された木々は人々の住む家となった。新たに植林された木の芽は子供の背丈程に成長したし、あの頃アカデミーにいた見習いたちは今は立派な忍として働いている。時代の変化と一言で表していいのかは分からないが、みな生きていくことに必死だった。そんな里の状況話に、は熱心に耳を傾けた。彼女は紙の媒体だけでは知るに及ばぬ情報を、点と点を結びつけるように必死に重ね合わせていく。
聞けば彼女はあの九尾襲来の後、岩隠れの先輩の元に戻ったそうなのだが、不運なことに彼はスパイとして捕まってしまったらしい。密書奪還の予定が一気に狂ってしまった彼女は、三代目の指示を仰ぎ、調査の結果敵の組織が土影直轄の部隊でないことを知ると、彼を取り戻すべく秘密裏に動いていたのだそうだ。なにしろその先輩はの事情を良く知る人間だった。放っておくわけにはいかない。万が一の場合はが先輩を殺すよう命令されていたのだが、彼女はそれを断固拒否したらしい。自分の秘密が漏れようと先輩の命は絶対に救うのだと。彼女はこうも言っていた。自分のせいで誰かが死ぬということ以上に、きっと先輩のことが好きだったのだ、と。形は違えど彼もまた彼女にとっては家族のような存在であり、守りたい存在だったのだ。その言葉を聞いた時、俺の胸中をもやもやしたものが一瞬埋め尽くすような感覚を得た(それがなんなのかは分からないが、あまり聞きたいことではなかったのかもしれない)。殺せという判断を下した三代目を非情な人間とは思わないが、彼は何度も大きな戦争を経験しているだけに物事に慎重なのだった。もちろんそれだけ彼女のチャクラは、影響が大きいという証でもあるが。
そうしてその頑固さから先輩を救い出すことに成功したのだが、屈強な警戒網の敷かれた中幻術狂いにされた彼を抱えて里へ戻ってくるには少々荷が重く、治療を施しながら隠れて生活をしていた。とはいえ医療忍術がつかえない彼女からしてみれば、それもまた壮絶だったことだろう。その間も彼女はずっと密書奪還のために動いていたが、中々手がかりが掴めず以前と同じように時間ばかりが過ぎてしまったらしい。こんなにも長い年月が経ってしまうなら、いっそのこと密書など見捨てればよかったのかもしれない。けれど重要レベルのものがあるのも事実だ。どこでどう悪用されるかも分からない。いっそのこと土影の企みだったほうが、対処の余地があるだけに良かったぐらいだ。何故もこんなに手間取ったのかといえば、木の葉の「根」が大きな関わりを持っていたからということだった。一体全体どうして「根」が岩隠れに密書を運んでいたのかは実のところよくわからない。それというのもダンゾウは、自分の知らないところで起こっていたのだ、と嫌疑を否定したからだ。けれど嘘にしか聞こえなかった。ダンゾウが何をしたかったのかは分からない。しかし理由はいくらでも想像できた。土影の知らないところで、自国から木の葉の密書が見つかれば、木の葉からしても黙ってはいられない。戦争の火種にするには十分な事柄だし、そうして戦争が起きて三代目が逝去すれば、ダンゾウは悲願の火影になることが出来る。そうでないのなら、岩隠れに送り込んだとその先輩の二人を戦犯にでもして、火影直轄の部下が情報流出だのなんだのと喚きその座を引き摺り下ろす、とか。それらの予想はどれもが物騒だったがしかしそれ以外に何を考えろというのだろうか。
「根」といえば自身も最近大きな出来事を経験した。四代目亡き後、実はあの九尾事件は三代目が火影に返り咲きたいが為に仕組んだことではないかとダンゾウに唆されたのだ。今思えば自分もどうかしていたのだろう、疑心暗鬼だったとはいえ、根に傾いてしまったのだから。そしてその先で出会った甲と名乗る根の少年。そいつはなんとあの木遁を使うのだからあれは以来の驚きだったと思う―なにしろ木遁は初代火影しか扱えぬ忍術であったのだから。のちに彼は大蛇丸の研究によって、初代火影の細胞を組み込まれた人間であるということが判明するが、この世の中には自分の想像を超えることが沢山あるものだと改めて思い知った。
大蛇丸の実験場は本当に恐ろしかった。もし奴がのチャクラのことを知ったら、死に物狂いで手に入れようとしてくるだろう。写輪眼に、彼女のチャクラに、初代の細胞に。それだけじゃない。秘術に血継淘汰といった恐ろしい力がこの世界にはごろごろ転がっている。味方となって力を発揮しているうちは良いが、敵がその力を手にしてしまったらと考えるだけで恐ろしかった。否、恐ろしいと感じるのは、力を扱う方も、扱われる方も、人が人でなくなった時のことかもしれない。
密書奪還の任務を終えるのにかれこれ三年かかったは、実はその後里に帰ってきていたらしい。そのことに俺が気付く間もなく次の任務を宛がわれたのだが、これがまた暗部らしい任務で、遠くの地へ二年間諜報として潜り込んでいたのだそうだ。というのも、ダンゾウによる犯人探しが始ったからだった。思い返せば確かに一時期根との衝突が激しい時期があったし、ダンゾウ自らによる正規暗部部隊への訪問も多かった。そうか、あれはそういうことだったのかと合点がいく。根に持つタイプとはいえダンゾウは頭の回転の速い男だ。こちらの動向を探りつつも無益だと判断すれば、その引き際を誤るほど愚かではない。
そして帰ってくるまでの残り一年を彼女は、火の国と同名を結ぶ小国の大名の護衛についていたのだそうだ。ハードな六年間だった―…、なんて、口にするのは簡単だが、それを感じさせない相変わらずの彼女の笑顔には感服以外のなにものでもない。



*



風のない夜だった。雲もなく空はひらけていて、星のきらめきがよく映えている。

「私、しばらく暗部を抜けるんです」
「表に帰るのか?」
「さあ。でも中忍試験と上忍昇格試験を受けろって、三代目が」
「え、お前下忍なの?」

言われてみればそうだった。下忍になって初めての遠征任務のあと直ぐに暗部に入隊したのだから、それもそのはずか。どちらかといえば彼女の場合、保護という名のもとの入隊だったが、あれからずっと暗部にいたのでは試験を受けるどころではなかっただろう。

「カカシさん、あのね」
「それ」
「え?」
「いつも思ってたけど、さん付けなくて良いし、敬語もやめない?」

昔、同じことを彼女に言ったのを思い出した。まだオビトやリンや先生が生きていた頃の、あの雨の降る日だ。俺をおどおどとした目で見ていた彼女は、あの時も仲間のことを考えていたっけな。思えば自分なんかより、ずっとずっと彼女は立派な人間だった。大事なことに気付くのが遅かった自分が情けないと心から感じた。

「カ、カ、シ」
「うん」
「い、違和感」
「で?何言おうとしたんだ?」

話を元に戻せば彼女はそうだったという顔をする。

「・・・右手、貸して」

ああ、これも昔言われたっけ。あの時と同じように差し出せば、相変わらず一回り小さい手が俺の手を包み込んだ。

(・・・)

温かかった。そう、この忌々しい右手が、温かかったのだ。
まだ小さかったとはいえ、この右手に震える俺を彼女はずっと見ていたのだろう。けれどきっと何も言えなかったのだ。幼さゆえにどうしたらいいか分からなかったのだ。それはこちらも一緒だった。多分あの時何かを言われていたら、きっとこの手を振り払っていたに違いない。そういえば、いつか三代目が言っていた。生前のミナト先生が俺のことを相談しに来たと。心配から俺を暗部に置いたものの、その心の傷を拡めてしまったのではないかと吐露する先生に、三代目は言ったのだ。心の傷は誰にも癒せない、時間が経つのを待つしかない、と。これがそういうことなんだろうか。正直なところ、よくわからなかった。
けれど、未だに過去に捉われて泥沼の迷路から抜け出せない俺だが、何かが変わりつつあるのは確かなのだ。慰霊碑に来ることも、リンの墓に寄ることも、己の不甲斐なさを吐き出す日々も。何も昔と変わりはしないのに、何かが違うのだ。しかしそれはまだ受け入れるべきものではないと思っている。思っているのに。

「オビト君や、リンちゃんだけじゃなく、先生までいなくなって、私はあなたが、どうしてこんなに辛酸を嘗めなきゃいけないんだろうと思ってた」

彼女は俺の右手をずっと見ながら言葉を紡いだ。

「一緒に任務を受けてても、どこか突っ走って、死んでも良いみたいな、でも死にたくないみたいな、そんな感じで」

少し睫毛が長くなっただろうか、少し女性らしさが出てきたのだろうか、あどけなさを残しつつも、彼女の表情には儚さと、哀愁が宿っていて。もはや小動物のように跳ねる子供ではなかった。

「あなたの瞳を冷たくしてしまったもののことを、何度も何度も考えてた。何か声をかけたい、力になりたいって、何度も思ったけど、私、オビト君とかリンちゃんとか、先生みたいなものを何も持ってなくて。だから、ただ逃げるだけだった」

知らなかった。そんなことを思っていたなんて。
紡がれる彼女の言葉の数々に、俺はいつのまにか取り込まれたように聞き入っていた。空気の音も、草木の匂いも、星のきらめきも、何もかもが感覚から締め出されていく。ただ感じるのは、の声。柔らかで、染み入るような音の調べ。

「まだ私には足りないから、いつか私の言葉があなたの心に伝わるとか、力になるとか、思い上がりかもしれないけどそうなったら良いなって思って、あの時、任務に戻ったけど、帰ってきてやっぱり思ったの。全然成長してないやって。次帰ってきたらその時は、なんて偉そうなこと言ったけど、私全然まだ子供なの」

ぽろり。温かな雫が手のひらに落ちてきた。
肌を通して彼女が震えていることが分かる。途中で言葉を挟んではならない。彼女の必死の思いを俺は最後まで聞かねばならないというその思いが、涙を拭うことを憚らせる。
彼女は赤くなった鼻をすすり、唇を噛み締めてから、さらに続けた。

「でも、でも、それでもずっと思ってた。あなたが、生きていて、くれてることが、私は嬉しいの」

そう言うと彼女は忍らしくない、そう、ただの一人の女の子のようにわっと泣き出してしまったのだった。

(どうして)

何故こんなにも彼女は自分を気にかけてくれるのだろう。どうしようもないところまで堕ちた自分を。出口のない迷路で彷徨う自分を。ミナト先生の教え子だから?オビトとリンを知っているから?だから見捨てられないと?なあ、それはどういう心からきているんだ?
そういえばアイツもそうだ、暇さえあれば勝負を仕掛けてくるアイツ、マイト・ガイ。俺は自分を暗部が似合うと思っていた。けれどあいつは反対のことを言った。無意識の内に俺を引き上げようとする。小さい頃から目障りなぐらいに現れては声をかけてくるあの友人。
一人になっていくと思っていた。この世界は地獄だと、そう思っていたのに。

―生きていることが嬉しい。
神風が身体を下から上へ吹き上がるかのような、はたまた鳥肌がぞわぞわと襲うような。それは今までに感じたことの無い気持ちだった。そうだ、自分は死にたかった。でも死にたくなかった。英雄の父がくれた命だから。親友がくれた瞳があるから。それを紡いでくれたリンの想いがあるから。それを絶やしたくなかった。絶やしてしまったら、今度こそ彼らがいなくなってしまうから。けれどそれを保っていられるほど現実は生易しくなかった。色のなくぼやけた世界をオビトに見させるのが苦痛だった。血を見るたびに、医療忍者として人を救うことを夢見ていたリンに顔向けできない自分を突きつけられた。俺もあの時死んでいたなら、今頃どこかあの世で笑いながら話ができていたのかもしれない、なんて思ってしまう。だから死んでしまいたかった。自分には生きている価値がないと思った。けれど彼らの思いは生きる価値があるものだったから。だから生きていこうとも決意した。

不気味に融合したアンビバレントな精神が、分かれていく。
茨の棘が、その角を丸くしていく。
ぐちゃぐちゃに絡まった紐が、ほどけていく。

「ありがとう。・・・・・・ありがとう、

たまらず空いている左手で、涙や鼻水でぐしゃぐしゃになった彼女の顔を拭った。

(ミナト先生、俺、)

今はっきり思う。全てに意味があったんだと。彼女に会ったことに、ちゃんと意味があったんだと。
ぎゅっと右手に力を込めた。手のひらに乗る彼女の体温を、しっかりと感じられるように。





















(2014.11.9)
(2016.3.7修正)               CLOSE