三日かかった。が先輩からの指示通り、あの根の尾行のために、懐かしの里に戻ってくるのに。だが久しぶりの空気が肺を満たしていることに、今はまだ気がつくわけにはいかない。
ターゲットは里に入ってからが厄介だった。万が一の際の尾行を撒くためか、それとも元からそう教育されているのかは分からないが、男は里内を縦横無尽に駆け巡っていたのである。どこに分身を置いているかも分からない。そのためは男の動きに用心しながら、性別も年齢も様々の分身を拡散させこちらの姿を明かさぬように後を追った。すると男は木の葉の忍といえども近づくことの許されないある建物へと入っていったのだった。
―やはり「根」が関係していたのか。
これまでミナトからは、根の関与について明確な答えを貰えずにいた。おそらく三代目を通さなければ、現火影といえど深くまで手を出せないのだろう。そしてそのヒルゼンもダンゾウから何も聞き出せなかったに違いない。もし彼が話を聞いていたならば、おそらくと先輩の二人には撤退命令が出ていただろうし、それになにより重要機密レベルのものも含まれているとなればヒルゼンと言えど見過ごすわけにはいかないのだから、はっきりとした返事が無いということは、まだダンゾウから情報を引き出せていないということだ。しかし現場は押さえた。これで何かしら進展はあるだろう。
そんなミナトからの手紙によれば、クシナの出産が間際であるという理由から、今は執務をヒルゼンが執り行っているとのことだった。そのためは踵を返して、すぐさまヒルゼンの元へと向かった。彼の元で事の次第を全て伝えると、半刻ほど策を講じるための時間が欲しいと彼女は告げられた。手持ち無沙汰になった時間で一体何をしよう。ふと彼女の脳裏に先輩の言葉が浮かぶ。会える時に会っておけという彼の意見はとても正しい。けれど岩の国で一人任務を全うする彼を思うと、まだ解決したわけでも、ましてや区切りがついたわけでもないのに、彼らに会うことはどこか中途半端な気がしてしまう。このままヒルゼンの元にとどまり、また密かに岩に戻ったほうが良いのでは。そんな思いが彼女の顔色に影を落としていたのだろう。ヒルゼンは煙管を机に静かに置くと、こっそり彼女に耳打ちしたのだった。今日がクシナの出産日だ、と。

「う、そ」
「嘘など言わんよ」
「ど、どうしよう、私、」

はヒルゼンの言葉に耳を疑った。だってこんな運命どこにあるだろうか、と。大好きな人と大好きな人の子供が今日、生まれるなんて。しかもその今日ここに、自分がいるだなんて。

(先輩ごめんなさい、やっぱり少しだけ、我儘を許してください)

目と鼻の奥がじんと熱くなるのがわかった頃には、もう涙を我慢することができなかった。ほろりと一粒零れれば、もうそれは止まらない。嬉しくて泣いたなんて一体いつ振りのことだろう。またそれをヒルゼンが微笑んで見つめているのだから、彼女は余計に涙が止まらなかった。

「こらこら、涙は取っておけ」
「でも、とまら、な、いっんです」
「順調ならもう少しで全て終わるだろう、任務に戻る前に二人に会っていくがよい」
「・・・っは、い」

ああ、きっと二人に似た可愛い子が産まれるのだろう。
早く会いたい。会って、おめでとうと言いたい。


しかしその時だった。その場にいた二人の背に、感じたことの無い悪寒が走ったのは。























「三代目!私も行きます!」
「ならん!お前はここにいろ!」
「行きます!!!」

の凄みに、ヒルゼンはそれ以上の凄みをぶつけた。その威圧に刹那は怯んでしまう。だが、九尾が出没したということは、その器であるクシナに何か起きたという事実を示しているのだ。彼女としてもここで引くわけにはいかなかった。ヒルゼンにとってもそれは同じで、まだ子供のを里内のいざこざに巻き込むわけにはいかなかったし、さらに言ってしまえば彼女のチャクラを何も知らない者たちに曝してしまうわけにはいかなかった。対尾獣となれば彼女の力が大きな戦力になると分かっていても、だ。

「お前は里の者を安全な場所へ誘導するのだ!」
「いやです、行かせて下さい!」
「駄目じゃ!」
「っ分からずや!!!」

火影に対して本来ならばあってはならないその侮辱ともとれる暴言を吐いた後、はヒルゼンの制止も聞かず窓から飛び出していった。やれやれと顔を顰めるもヒルゼン自身もゆっくりとはしていられず、装備を整えるとすぐに彼女の後を追う。久々に大きな戦いがやってくる。その重圧は彼の足に鉛のような重さを齎した。一歩一歩、それを振り払うように小さな背中を追う。里を守るための折れてはならない柱は他の誰でもない自分なのだと、そう鼓舞しながら。

(はあ・・・っはあ・・・先生・・・っクシナさん)

ありたっけの力では街中を駆け抜けた。ただただ愛おしい人たちの無事を願って。
家々の屋根を風のように駆け抜けていく。普段は何気なく通り過ぎてしまう道に咲く花や、商店街から立ち上る夕飯時特有の匂い。それらがなぜか今だけは濃く感じてしまう。思い出されるミナトとクシナとの団欒のひと時。不安に押し潰されそうで、かき消すように目をぎゅっと瞑る。

(お願い、無事でいて)

その時夜空が禍々しい光によって照らし上げられた。まるで真っ黒な太陽だ。不穏な気配しか漂わせないそれは、次第に大きくなって夜空へと浮かび上がる。民家からは一体何が起きたのかと窓から顔を出す人で溢れ、忍は彼らを避難させようと躍起になって駆け回っていた。

「・・・っあれは」

すると後ろからヒルゼンがやってきた。の何倍も年を重ねているとはいえ流石最強と謳われた忍、その足の速さは今も健在だ。普段よりも重厚な装備を纏ったヒルゼンは横を走る少女に鋭い眼光を放つ。

「チャクラ玉だ、九尾のな」
「三代目・・・!」
「全く無鉄砲に走りおって」
「と、とめても無駄ですよ!私は先生のところにっ」
「分かっておる!わしの傍を離れるなよ!」

の声にかぶせるようにヒルゼンが言い放った。その言葉に明るくなる彼女の顔に同じく彼が笑みを返したのも束の間、どうしたことだろう夜空に浮かび上がったチャクラ玉が急に消え去ってしまった。あたりが一瞬にして元の夜に戻ると、町中から再び混乱の叫びが上がった。何が起きたのかを瞬時に理解できなかったとは打って変わって、並走するヒルゼンは「ミナトじゃな」と静かに呟いた。それを聞き漏らさなかった彼女は目にも留まらぬ速さで彼の方を向いた。そうか、先生か、と彼女にもあれがミナトの術だと合点がいったようだった。

(・・・先生!)

少女の胸は軽くなった。だがそれは気を紛らわすだけに過ぎず、早くミナトの元へ向かわねばという焦りが余計に集る。しかし同時に彼女の視界に橙色の巨大な物体が映った。以前クシナが絵に描いて話をしてくれたことがあるが、実際に目にするのは初めてのことだった。禍々しいなんてものではないその風貌が、酷く不吉に映って仕方がない。怒り狂い荒れ狂うあの狐が、クシナの体内に収まっていたなど一体誰が信じられよう。彼女は九尾を「やんちゃなペットだってばね」と形容していたが、そんな「ペット」で済ませられる枠に収まらないのだけは確かだ。彼女は本当は相当苦しい思いをしていたのではないか。毎日明るく笑って元気な彼女は、九尾と向き合うためにずっと戦い続けていたのではないか。自分は何も知らずに平然と生きていた、という思いには眉を寄せた。

「三代目、あの目、あれって・・・」

巨大な目玉がぎろりと、二人が走る方を射抜く。それは赤い目で、勾玉のような斑点があるものだった。あれと似たものをは知っていた。

(カカシさんの目に、似てる)

そう、親友であるオビトから譲り受けたあの目、写輪眼に。どうしてそれが九尾の瞳に映るのか、考えられることは一つしかなかった。

「・・・まずは里の外へ追いやらねば」

たらりと汗がヒルゼンの米神を伝った。
九尾の暴走は、決して護衛の暗部やミナトらが押さえ切れなかったからではない。外部の力が働いた結果、九尾が何者かに操られたと考えるのが自然だった。あの目は間違いなくうちは一族のもので、そして九尾ほどの生き物を相手にそれが出来る人間は―・・・。いや、ありえない、そんなことあってはならないのだ。しかし今はそれを考えている場合ではなかった。とにかく九尾をまずは里の外へ追いやりそこで何とか対処しなくてはならない、とヒルゼンは冷静を取り戻す。

「三代目!九尾の目が・・」
「なに!?」

先ほどの写輪眼が煙のように消えたかと思えば、今度は獣らしく鈍い光を放つ目が露になった。それは幻術が解けたことを示していた。だがそれを喜んではいられなかった。なにせ幻術が解かれた本来の九尾の方が、より凶暴性が高いからだ。こうなったのがもし術者の策略なのだとしたら。里はますます非常事態だ。戦いは此処からが本番だった。

「・・・仕方ない」

ミナトのいない今、再びチャクラ玉を吐かれでもしたら。現に九尾は一層荒々しい雄叫びを上げ、一足で何十本もの木を蹴散らし、里の外壁まで粉々にしながら溜め込んだ力を解放しようとばかりに息を吸い込み始めている。次にあれをやられたら間違いなく里は終いだ。だからこそ、それは苦渋の決断だった。

よ、瞬身で火影岩の方にまわれ!そこから粘度の高い水遁で里に防護壁を貼るのじゃ、いいか、ありったけの力でだ!」

今日はほぼ満月だ。チャクラ量が無尽蔵になる今の彼女ならば、チャクラ玉に敵いはしなくとも、クッションにすることはできるだろう。彼女を公の場で戦力として扱うことが一体どれだけ危険なことか。しかし里を失うことに比べたら、彼女の力が露呈することなど。そう、天秤にかけてはいられない。明るみになったとてそのあと全力で守っていけばいい。そう、たったそれだけのことだ。全力で、守ればいいだけなのだ。

はこくりと頷くと、煙と共に火影岩へと消えていった。



*



ボンっと煙と共に火影岩に到着するや否や、瞳に映る光景には目を見開いた。

「・・・せん、せい」

「四代目火影」と書かれた陣羽織がゆらゆらと風に靡いている。月に照らされて一層そのきらめきを増す金髪は、の大好きな、そう、久しく会っていなかった相手そのものだ。

、どうして、ここに」

彼女が里外に出たままだと思っていたミナトもまた、自身の後ろに立つ少女の姿に目を丸くさせた。今ここにいるのだから、きっと何かしら事情があって戻ってきたに違いない。久方ぶりの彼女は随分大きくなったように見えた。肌が感じている。彼女の成長を。

「おかえり、。大きくなったね」
「せんせえっ」

たまらずにがミナトに抱きつけば、羽織は土の匂いで一杯だった。それでもあの懐かしい匂いが胸に落ちてくる。ミナトと、クシナの、そして一緒に暮らした日々の香りが。
無事でいてくれて良かった、とは涙した。また会えて良かったという想いの分だけ羽織に皺作り、涙で色を変えていく。言いたいことが沢山ある、聞きたいことが山ほどある、里にいなかった日々のこと、貰った手紙が生きがいであったこと、あれもこれもそれもみんなみんな聞いてほしいし、聞かせてほしい。

「・・・会えてよかった、
「クシ、クシナさんっは」
「ん、大丈夫、大丈夫だ」
「せんせえ・・・」

同じようにミナトはぎゅっと彼女を抱きしめ返しながら、まだ幼い子の頭をそっとなでた。一体何回この子の頭を撫でてきただろうか。それはそれは、数え切れないほどだ。それは証だ。自分がそれだけこの少女と時を過ごしてきたという。過ごした日々のことが今でもありありと浮かび上がる。好きな食べ物と嫌いな食べ物、得意なことと苦手なこと。一緒に食事を取って、一緒に風呂に入って、一緒のベッドで寝て。朝起きればおはようと言い、出かけるときはいってらっしゃい、帰ってくればただいま、おかえり。洗顔料と歯磨き粉を間違えたこともあったし、塩と砂糖を間違えたこともあった。一緒に花見も月見もしたし、輪廻祭だって一緒だった。家族とは、一体どういう状態のことを家族と言うのだろう。血の繋がりだろうか。一緒に過ごした年月だろうか。それとも互いを思う心だろうか。それでもミナトは思うのだ。自分と彼女の関係が家族と呼べないのならば、家族なんてきっとどこにもありはしないのだと。

「・・・と一緒に暮らし始めてから、もう七年だね」

保護という名の、そして監視という名の。チャクラの途切れぬ不思議な子。でもそれは彼にとって建前でしかなかった。この子の全てが愛おしいのだから。かけがえのない存在だ。そうやってミナトもクシナもを心から愛を注ぎその成長を見守ってきた。だから守りたい。この子の明日を。この子の幸せを。

「家族を君は、教えてくれた」
「・・・せん、せ?」

さらにミナトは思うのだった。息子が、ナルトが生まれてきたら、はきっと良い姉になると。よりいっそう幸せな日々が、そこにはあると。いつまでも一緒に暮らしていきたいのだと。
その想いを叶えるためにも、自分にしがみ付く小さな手を解かねばならなかった。大丈夫、また直ぐに会えるから、と。その言葉を言おうとして気がついた。自分に対してもまた聞かせようとしていることを。だって目の前で泣きじゃくる彼女は、今はもはや忍ではなくただの少女だ。誰かが守ってやらねばならない、いいやちがう、他の誰でもない自分が守らなければならない大切な大切な宝だ。わなわなと震えるの頭に再度手を置くことのなんと辛いことか。頬を撫でてその温もりを確かめることのなんと侘しいことか。

、目を瞑って」
「・・・え」

「いいから」と言われるがままには目を閉じさせられる。

「お守り、まだ持っててくれたんだね」

首からするすると引き出されたのは、初めての遠征任務の前日にミナトとクシナがに贈った縮緬の花のお守りだった。貰った日から風呂以外で一度も外したことのない、にとって命よりも大切な宝物だ。このお守りがあるからこそ、自分はどんな時でも頑張れる。立ち上がることができる。どこまでも力を引き出すことができる。

「当たり前じゃない、私の宝物だもの」

目を瞑っている彼女にとって、目の前の愛しい人が今どんな顔をしているのか知る由も無かった。だが次の瞬間に額に触れたのは。頬に触れたのは。この柔らかな温もりは。それがミナトの唇だと気付くのに時間はかからなかった。

「ありがとう、。愛してる」
「ミナトせんせ・・・?」
「また皆で、今度は四人でご飯を食べよう、そうだね、カカシも入れると五人かな」

はにかむ声。でもそれからやってきたのは一塵の風と、音のない世界だった。

「せん、せい」

おそるおそるが目を開けば、そこにミナトはもういなかった。そう、音も無く、彼は消えてしまったのだ。残っているのは額と頬のキスの感触と、温かな手の温もり。
その場から街を見下ろせば、九尾の上に乗る大きな蛙がいて、そしてその蛙の上にミナトが立っていた。
なぜだろう。「また」と言われたのに、その言葉を遠く感じてしまうのは。
なぜだろう。「皆でご飯を食べよう」と言われたそれが、実現しないだろうことを感じてしまうのは。

(いかないで、せんせい、いかないで、)

涙が伝う。まだ彼の温もりの残る頬を、ゆっくりと。



*



次の日、今までの嵐が嘘のように静かだった。里は無事守られたというのに、人々の心は確かに死んでいた。誰もが何も口に出せなかった。悪夢はまだまだ続いていた。
ヒルゼンらによって運ばれた二人の遺体をは俄かに信じることはできなかった。運ばれる振動によって動く身体はまるで人形のようだった。目の前を通り過ぎて行くそれを、ただ横目で追うしかできず、彼女は呆然と立ち尽くしていた。零れ落ちた涙が喪服に染みてゆく。黒をより濃い黒に染めたその点が、ぽつりぽつりと次第に増えていく。
その後の記憶は全く無かった。世界はモノクロだった。気がついた時は共同墓地にいたが、どうやってそこまで足を運んだのかも覚えてはいない。火の石碑前でドサリと崩れ落ちる彼女の背中はとても小さく、消えてしまいそうだった。彼女にとってミナトとクシナは絶対的な存在だった。彼らが彼女の世界を作ったといっても間違いではないし、彼女もまっすぐに彼らを見て育ってきた。ミナトの持つ言葉の力はいつも彼女に力を与え、クシナのもつ愛情の深さはいつも彼女の心を癒した。いつだって、どんな時だって、二人は彼女の支えだった。

「・・・帰ってたのか」

声のする方をは振り向かなかった。声の主が誰なのかはっきりと理解していたからだ。

「たまたま昨日、戻ってきたんです」
「・・・そうか」

カカシは彼女の横にそっと腰を降ろした。なぜだかここが、しっくりくるような気がして。こうして二人で話をするのはいつ振りだろう。

「また、って、言った。先生」

彼女から出た言葉が宙を漂う。

「皆で、ご飯食べようって、カカシさんも入れてって」

泣き腫らしたのだろう赤くなってしまった少女の目を、カカシはじっと見つめた。なんと声をかけたら良いのだろう。だって彼女は自分以上に彼らと近いところで生活していたのだから。しかし同時に思ったのだ。自分も彼女のように泣けたら良かったかもしれないと。
今回の件に関してカカシたち若い世代は戦闘に参加させてもらうことができなかった。非戦闘員を守ることも里にとっては欠かせないことだが、やはり疎外感が強かったのだ。結界まで張って戦闘させない強固な姿勢にある種の憤りすら感じたものだが、しかし起きてしまったことは変えられない。だからだろうか。受け止められているのか、いないのか、それすらも分からず。カカシにとってミナトは大切な師匠でもありまた最後の班員でもあったのに、不思議と涙が出なかった。ぽっかりと穴が開き、閉じないまま、ただそれだけ。もう誰もいない。世界は空虚な色に成り代わった、ただそれだけなのだ。

「二人は、私の世界だった」

はぎゅっとお守りを握り締めた。
昔、瀕死寸前だったとき、このお守りを握り締めればミナトが力をくれる気がした。クシナの優しい声が自分を押してくれる気がした。そうして自分を奮い立たせては、また二人の元に帰りたいと願ったのだ。

「・・・俺も、寂しい」

聞こえるか聞こえないかという声音でぽつりと呟かれた言葉。ははっと目を見開いた。そして唇を噛み締め、初めてその顔をカカシに向ける。自分も酷い顔をしていたが、彼も酷い顔だった。生気の感じられない、酷い顔を前に、が眉を寄せる。

「ごはん、食べてないでしょう」
「食えるもんか」
「ううん、ちがう、もっとずっと、毎日」

苦しんでいる。出口の無い迷路をずっと彷徨っている。最後に彼に会った時よりも酷いかもしれない。はそう思った。

(あのあと一体何があったの)

聞きたい。自分がいなくなった後のあなたの世界を。
けれど聞いたところで一体自分に何ができるというのだろう。はたけカカシという一人の人間から逃げた過去は変わらないというのに。今の自分なら、昔とは違うのだろうか。先輩と任務に出てからの自分を彼女は思い出すが、成長した気にはなれなかった。きっとまだ自分の言葉や態度では不十分に違いない。ミナトやクシナだったら、先輩だったら何と言葉を紡ぐのだろう。そんなことばかり考えてしまう。でももういない。ミナトもクシナも。別れを告げることすら許されずに。

「・・・戻らないと」
「どこへ」
「任務に。先輩が、一人でまだ、戦ってるから」
「危険なのか」
「大丈夫、私は絶対帰ってきます」

その「大丈夫」の三文字の根拠はどこから来るのだろう、とカカシは思った。少年の虚ろな瞳が少女の所作の一つ一つを拾っていく。拍子、互いの瞳がかち合った。

(お前はさ、平気なの)

喉元まで込みあがるのに、そこから先が彼には言えなかった。
は襟の中へ宝物を仕舞うと、すっくと立ち上がる。そして見下ろす形になったカカシに言ったのだった。

「カカシさん、右手貸して」

そこに何の意図があるかは分からなかったが、言われた通りにカカシは立ち上がると右手を彼女に差し出した。色素の薄い手のひらが、一回りは小さいだろう手に重ねられる。お互い血の気もなく冷たい手をしていた。

(震えてる。この人は、また、辛い思いを)

もし神様がいるのなら、意地悪だ。平等なんて、嘘だ。慈しみなんて、綺麗事だ。
だって目の前のこの人は、愛しい師の死を前に、涙を流せないほどに苦しんでいるのだから。

「あなたのことを、よく考えてました」

カカシの鼓膜を打つ少女の声。思わず心が震えるような、そういう優しい音だった。でもそれはすぐさま悲痛さを孕んだものに変わっていく。

「あの時は、何もできずに、あなたから逃げ出した。ううん、今もまだ何もできないけど、でも次帰ってきたら、その時は私きっと」














(2014.11.9)
(2016.3.7修正)               CLOSE