気が付いたら病院のベッドにいた。どうやら疲労で倒れただけのようで―もしかしたら既に医療班が治してくれたのかもしれないが―、体のどこを見渡しても、さしあたって目立った傷は見られなかった。 自分以外に誰もいないこの空間に、無機質な換気扇の音だけがやけに大きく響く。一瞬異様であるとさえ思えてしまう室内からは、なぜだろう、どこか冷ややかな空気すら感じるようだ。その証拠に腕に視線を落せば産毛が立っていた。しかし、窓から見える景色はいつもと変わらぬ里のそれなのだから、寝通しだった鈍い感覚によって引き起こされた思い過ごしというやつなのだろう。
帰って来たという安堵は、おそろしいほどにどこにも無かった。それはさながら自らの居場所が戦場にあると言っているような印象を与えかねないが、それともまた違うことに注意してもらいたい。詳しいことは自分でもよく分からないし、上手く表現することもできない。ただ、落ち着けるところがこの世のどこにあるのかというぐらいに、自分の居場所が分からなかった。居場所の内実というものは一体何なのか。戻ってくるところなのか。それとも今現在居るところのことなのか。そうしていつも見つからない答えの堂々巡りに迷い込む。とはいえ、四代目の勧めで暗部に身を置くようになってからというもの、与えられる任務の数が尋常ではなかったがゆえに考えることを忘れていた。ある意味それで良かったのかもしれない。けれど言い換えればそれは、導き出さねばならぬ答えを先延ばしにしているに過ぎない。つまるところ、そのことを十分に理解した上で今の生活が成り立っているのが厄介なのだった。出口の無い迷路を彷徨うのを自覚している時の辛さといったら、人はそれを一体何と形容したものか。

ぼんやりと、焦点のはっきりしない目で石灰のように白い天井を見上げる。最近改装したばかりだからか、とても清潔感があった。けれど皮肉にもこの白さが、己の内面の淀みをより鮮明に浮かび上がらせる。こんなに綺麗なところに放り込まずとも、自分なんて旧病棟で十分なぐらいなのに。自分のことを卑下して自嘲するなんて、嫌な人間だ。そう、俺という人間はつくづく嫌な人間なのだ。

「・・・具合はどうですか」

それは聞き覚えの無い声だった。はっと目を見開きドアの方に顔を向ければ、犬の面をつけた女が立っていた。女と言ってもその風貌は自分より遥かに小さい。まだ少女だ。
面をしている―それが意味するものすなわち「暗部の人間」ということになるが、はたしてそれが火影直轄の暗部なのか、所謂「根」の者なのかは区別が付かなかった。しかし幼いとはいえやはり暗部といったところだろうか。この緊迫した空気に少女がチャクラの流れを乱す様子はない。自分も決して気を抜いていた訳ではなかったのに、気配もなくこの部屋に入り込むとはよく訓練されている。自分より小さくても強い奴なんていくらでもいる、とは思っていたし現に暗部でも叩き込まれてきたものの、よもや目の前にそう成りうるような奴が実際に現れるとは誰が予想したことだろうか。

「誰だ」

殺気立ててその少女を睨みつける。が、少女は臆することもなくこちらに近づいて来た。

「四代目様より言伝です。次の任務のことで」
「何故忍鳥を使わない?」
「私がツーマンセルの相手なので、ついでだから顔合わせをしておけと」

顔合わせと言ったって、面は外さぬが基本じゃないか、なんて思った矢先、少女は己の面を外しにかかっていたのだから思わず息を呑む。

「・・・お、前」

露になった顔にはどこか見覚えがあった。だからだろうか、面が外される瞬間がやけにスローモーションのように見えてしまった。

あれはいつのことだったろう。
今よりももっと小さかったこの少女を、四代目が―ミナト先生が預かることになったのは。




















昔、いつだったかの任務の帰り、そう、オビトとリンと街を歩いていた時のことだ。川沿いの通りでミナト先生と鉢合わせたことがあった。その時に連れていた小さな子―アカデミー生よりも小さかった―が彼女だ。そんな幼子を連れていたものだから、好奇心旺盛なオビトはまるで宝物を手にしたかのように両目をきらきらと輝かせ、「いつの間に子供作ったんですかぁ先生」とにやにやと笑っていた。もちろん自分も同じことを思った。しかしよくよく考えてみれば変だったのだ。なにせ計算が合わぬどころか二人は結婚はおろか、同棲すらしていなかったのだから。
先生は困ったように笑いながら、「新しく一緒に住むことになったんだよ」と教えてくれた。新しい同居人とやらの少女は、先生の膝の後ろからちょこんとこちらに顔を覗かせていた。この少女、オビトやリンにはそれとなく優しく、人懐こい目をするくせに、俺にだけは怯えたような眼差しを向けてきたのをよく覚えている。得てして好かれたいというわけではないが、かといって何の理由もなく怯えられるのはあまり好い気がしない。先生は少女に「カカシは怖くないよ」なんて声をかけていた。そう、自分としても彼女を睨んでいたのではない、と思いながらも結局のところどう声をかけたら良いのか分からず、ただなんとなく、ぽん、と彼女の頭に手を置くことしかできなかった。その時はそれで終わったが、別の日に先生の家を訪ねたところ、任務の話が終わった折に先生は彼女の子細を打ち明けてくれた。
聞けば彼女は家の一人娘だという。名前をと言った。家といえば木の葉の里の外れにある森に住んでいる、火の国における動物の生態調査や、またそれらの管理や保護を任されている一族だ。一族と言っても猪鹿蝶のような大一族からしてみれば、誰と血縁がある訳でもない、どこにでもいる核家族といったものだが。
そんな佐伯家は、里外から持ち込まれたであろう外来種の調査だけでなく、駆除もその仕事の一つとしていて、忍稼業と平行しながら里内外のあらゆる生態系に関する資料を作成していた。しかし里の外れという場所柄、第三次忍界大戦が始まってすぐに戦地として選ばれてしまった。そして戦地へ赴いた両親はそこで殉職してしまったのだそうだ。
だから戦争孤児となった少女を先生が引き取ったのだというが、どうもいまひとつ納得のいかない話だった。一体何故彼女だけを先生は引き取ったのだろう。数え切れぬほどの戦争孤児が他にもいるというのに。憐れみという理由からでないことはすぐさま予想がついた。しかし、いくら直近の教え子とはいえ、先生はその本意を自分に伝える気は無かったようだ。というよりも実際は、笑顔で穏やかな表情であるにもかかわらず、意見を言い返させないような先生の圧力―それも先生の意図というのではなく、俺自身の体感でしかないが―に負けてしまったのだ。もとよりこの時はその一人娘とやらが、自分に関わるような人間になるとは思いもしなかったので、気にするのは野暮なことだと己に言い聞かせたのだが。
両親が忍だったこともあり、当然彼女にも忍としての素質は備わっていたようで、先生はチャクラの扱い方を暇を見つけては教え込んでいた。そこまで執着するほどの特別な才が彼女にあったのだろうか。どこからどうみても普通の子供だった。そんな彼女を先生の家に寄る度に目にしたが、オビトとリンには無邪気な笑顔を見せるようになっていたくせに、こちらに対してはやはり一歩引いたところにいるのだった。だからその時心のどこかで思ったのだ。興味を持つだけ無駄だ、と。

それから自分が任務や上忍昇格試験のための修行に明け暮れていたこともあり、次に彼女と会ったのは二年後のある雨が降る日だった。阿吽近くの川辺で偶然すれ違ったのだ。久しぶりのその姿は随分成長したように見えた。ふと声をかければ―今思えば何故そうしたのかは分からないが、ただ本当にこの時は無意識的だった―彼女は自分に対して相変わらずおどおどした声を出すので、結果的には幻滅してしまった。なにしろあの四代目が引き取った子供なのだから、それはそれは特別な何かを持っているに違いない、そしてあの四代目と一緒にいるのだから、修業的な意味でさぞ充実した日々を送っているのだろうと勝手に思っていたからだ。このどこにでもいそうな普通の少女はまた、俺に誰もが抱えていそうな悩みを、それというのも落ち込んでいる仲間にしてあげられることは何か、などと打ち明け出したものだからそれはますますそうだった。
多分自分はどこかで日がなずっと先生の傍にいられる彼女のことを妬んでいたのかもしれない。だって先生はあの木の葉の黄色い閃光なのだ。いくら先生が分け隔てなく里の皆を愛していても、その時間は限られる。だからこそ多くの時間を共にし、先生の姿を間近で目に焼きつけることができるのは正直羨ましかったし、そのぐらいしているのなら、少しは堂々たる忍になっていても良かったのに、と思うからこその「幻滅」だったのだろう。大きくなったとはいえ、一見まだ下忍なのだからそういうレベルを求める自分がずれているのかもしれないが。そんな彼女の話はこうだった。
下忍になって初めての遠征任務が、国境警備に当たる忍に補給物資を運ぶことだった。任務自体は別段酷なものでもなんでもないが、戦時中ということもあり戦闘を考慮するならばCランクといったところだろう。下忍といえど戦時中は大きな戦力だ。こういった任務が次から次へと舞い込んでくる。担当上忍は補給物資を運ぶだけだからそう固くなるな、と班員を常に気にかけていたそうだが、いざ向かった先にいたのは木の葉の忍に化けた敵国の忍だったらしい。あの場で戦闘が起こったのはもう半年程前だが、残党が生きながらえていたのだろう。奴らは補給物資と共に彼女の担当上忍を拉致し、さらに口封じのために追われ、仲間の一人が死んでしまったそうだ。
この話を客観的に考えてみたものの、今は誰がなんと言おうと世を悩ます戦時中だ、そうした状況の中でこの結果とは、お粗末過ぎるとしか言えなかった。担当上忍ならば班員を安心させることも大事かもしれないが、それ以上に万が一の場合に備えてフォーメーションを取れるようしておくのが最優先に決まっている。準備不足が招いた事態だという以外どう解釈すれば良かっただろうか。やらねばならないことが想像以上にあるというのに、落ち込んでいる暇などないのが戦争というものだ。色んなものをかなぐり捨てて、そう、自分自身でさえ捨てて生きていくことが求められる。それが忍だ。だから言ったのだ。忍に感情なんて余計だと。それ以外なにが言えただろう。だってその通りではないか。詰まるような心の痛みを抱え、苦しむことに比べたら、感情なんて捨ててしまったほうが楽なのだから。

その日以来彼女を見かけることは無くなった。そしてオビトとリンを失ったのは、それからまもなくのことだった。



*



「・・・いつから暗部に?」
「最後に会った時には、もう」

静かに言い放った彼女の瞳は真っ直ぐにこちらを見つめていて、いつかの狼狽したようなそれではなかった。それどころか初めて向けられた芯のある眼差しは、自身を圧倒してくるかの勢いだった。それだけ過酷な世界を生きてきたのだろう。
最後に会った時、それはすなわち彼女に辛辣な一言を発した時だが、あの時すでに暗部にいたとは思いもしなかった。自分の知らないところで誰かの人生が流れている。当たり前のことだ。自分の持つ世界だけが全てではない。そうしたことも分かっているけれど。けれどどこか、知らない所で流れる時間を異質に感じてしまうのだ。

「俺より先輩ってわけか」
「そんな、私なんてあなたの足元にも」
「・・・そういうつもりはなかった」

彼女はふるふると首を振った。その度に揺れる髪の毛が、どこか小動物を思い起こさせる。

「で?次の任務って?」
「詳しくはこれを」

そう言って彼女の小さな手が差し出してきた巻物を受け取った。まだ小さい手だというのに、痕の残るクナイ胼胝。
紐を解いて中を見れば、そこに書かれていたのは戦争終結地の一つでもある場所への偵察と、未だ残っているであろう自国の忍の遺体の抹消で、隅の余白に「くれぐれも彼女のことを頼んだよ」という一言が添えられていた。普段から私情を挟まないのがミナト先生のやり方でもあったが、一緒に暮らしているとなると流石に親心とでも言うのだろうか、我が子を思うあまりに書いてしまったのか、そんな気がしなくもない。誰よりも頭の回転が早く若いながらに誰よりも思考能力に長けているとはいえ、どこか天然な面もあるのがミナト先生だ。とはいえその要素とは別に、違う理由が裏に隠されていることも考慮せねばならない。しかしこの一言に隠された意味を読み取ることは、現段階では不可能だった。

「いくつになったんだ、お前」
「今年八歳になります」

大きくなった―といっても記憶の片隅にいる彼女はほんの僅かだ。それにそういう自分だってまだ十代の前半だ。その言葉を綴るにはまだまだな幼い気がして口を噤む。どことなく息の詰まるような空気が流れる中、もうこれ以上喋ることはないと思ったのか彼女は面を付けると、深々と自分にお辞儀をしてその場を後にしてしまった。
またも病室に訪れる静寂。響く換気扇の音。かすかに日の照りが減った窓の奥。

(・・・あいつ、リンを髣髴とさせる)

もちろん風貌はまるで違う。似ても似つかない。ただ、仲間を失って間もない自分にとって、あの姿はある意味毒気のように思われた。
ひと月ほど前だろうか、平和条約に関する書類を受け取る任務に出た時、敵の忍びに囲まれたことがあった。千鳥を発動した際、目の前に現れる血を流すリンの姿に動けなくなり、窮地のところをガイに救われたのだ。暗部に身を置くきっかけと言っても過言ではないこの出来事を経て、こうして任務に明け暮れる毎日だというのに。そう、何も考えずに済んでいた。千鳥を発動する度にリンの姿がちらつくのは相変わらずだが、それでも余計なことを考えずに済んだ日々に、ミナト先生は一体何をしようというのだろう。

窓辺に翳した右手は真っ赤に染まっていた。














(2014.11.9)
(2016.3.3修正)               CLOSE