満月に近い丸い月がよく見える夜だった。気が付いたら私はここにいて、どうやって来たのかは覚えていない。足場は硬くてしっかりしている。だけど何色なのかも何の素材でできているのかも分からなくて、おそるおそる一歩踏み出せば、景色が雑多な都会のそれに一転した。 さっきまで自分は一体何を見ていたのだろう。そう思ったのも束の間、大きなクラクションが耳を劈く。信号無視をした酔っぱらいのサラリーマンに、危うく轢きそうになった車の運転手が怒号を浴びせかけている。それを白い目でじろじろと視線を投げかけては通り過ぎていく街の人々。 辺りを見回す。なんだろう、見知った風景な気がしなくもない。来たことなんてない筈なのに、なぜだかこの道を知っている気がする。私の中の何かだったのか、それとも別の何かだったのかは分からない。けれども何かが告げていた。この道を真っ直ぐに進めと。そうしてまた歩き始めた。永遠に、真っ直ぐに。 「・・・あれ?」 行き交う人々の中に、一人、誰かが立っていた。 月を溶かしたような髪の色を夜の風に棚引かせる、あの後姿をよく知っている。 「降谷さん」 グレースーツに身を包んだ彼が、一瞬だけ振り返った。だけれども。彼の瞳にいつもの温かな色はなくて、今この時、それはまるで厳しい冬の吹雪のような冷たさと、宇宙の果てのような暗さをしていた。 ぞわぞわと、例えようのない悪寒が背中を駆け抜ける。彼が歩き出そうとする。だから慌てて彼の名前を呼んだ。呼んだのに。その声は届きはしなかった。闇の中へと交じり合うように彼のシルエットが消えていく。それなのに、誰もそのことに気付かず歩き続けている。ねえ、どうして誰も気が付かないの、今あの人、どこかに行こうとしてるのよ。さっきはあんなにも、みんな車に反応してたじゃない。 どうしよう、いなくなってしまう、どこか遠くに行ってしまう。走っても、走っても、決して距離は縮まらなくて、息ばかりが上がっていく。いつの間にか、周りに人はいなくなっていた。それでも走り続けたある瞬間、足が縺れて倒れてしまった。痛い。思い切り膝を打った。どうしようもなく痛い。腕に力を入れて立ち上がろうとするけれど、嘘みたいに腰から下の力が抜けていた。でも立ち上がらねば。だって今追いかけなければ、二度と彼の顔を見ることができない気がするのだから。動いて、ねえ動いてよ私の体。 その時だった。とんとんと、肩を叩かれたのは。ハっとして、すぐさま後ろを振り返る。そこにいたのは―…。 「、何してるこんなところで」 「ふる、やさん?」 「こけたのか?まったく、おっちょこちょいだな」 ほら、立てるか?と小麦色の腕が伸びてくる。彼はとても優しい顔をしていた。男性の割には長いまつ毛。きりりとした眉。高い鼻。深い海の青を思わせる、どこまでも美しい瞳。形の良い唇。張りのある頬。前かがみになって髪が揺れて輪郭が露になっても、彼の美しさは変わらなかった。 さっきの降谷さんはどこに行ったんですか、どうしてあんなにも重い顔をしていたんですか、どうして呼んでも止まってくれなかったんですか。言いたいことが沢山ありすぎて、そのどれもが言葉にならないでただ彼の瞳を見つめていると、彼は困ったように笑って「どうした?」と目の前にしゃがみ込んだ。 「泣くんじゃない、大人だろ」 ほろりと零れた雫をぬぐう骨ばった線の太い指先。諭すような言葉とは裏腹にその触れ方はおそろしいほどに優しく、まるで自分が壊れ物になってしまったかのようだった。 (・・・ちがう、壊れてしまいそうなのは) ゆっくりと、手を伸ばす。手の甲の、血管を、筋を、骨を滑らすように。私の指を追うように、彼の瞼が下がっていく。首元に、耳たぶに、頬に、瞼に、鼻に、そして唇に。順に触れて、熱を確かめる。 「・・・?」 「零、さん」 強い人だと分かっている。弱音を吐く暇があるなら前に進む人だとも分かっているけども。 (私の前で、そんなに、きれいに笑わないで) いつの間に、追いかけてしまうようになったんだろう。 いつの間に、もっと知りたいと思うようになってしまったんだろう。 いつの間に、この人のために自分ができることを探すようになってしまったんだろう。 「珍しいな、君が名前を呼んでくれるなんて」 ふふ、と細められた目。息ができなくなるほど胸が切なくなる。苦しい。苦しいんですよ、降谷さん。あなたのことを考えると、心が熱くなって、苦しくなって、切なくなって、自分の体なのに、言うことを全然聞かなくなっちゃうんですよ。恋をするって、こんなにも―…。 携帯のアラームが鳴った。重たい瞼を開けると、そこは自分の部屋だった。サイドテーブルに手を伸ばしかけて気が付く。目尻から、一粒零れていったことに。 (・・・空港、行かないと) それでも彼はきっと言うのだ。いつものように笑って、「大丈夫だから」と。 (2017.11.4 eine Ahnung=予感) CLOSE |