仕事でミスをした。午後の会議で使うからと頼まれていた資料の翻訳をすっかり忘れていたのだ。パソコンの画面右上に、太い赤文字とともにポストイットを貼っていたにもかかわらず、会議の二十分前に上司に尋ねられるまで完全に頭から消えてしまっていた。馬鹿野郎、とあちらこちらから雷を轟々落とされながら急いで翻訳にかかり、会議の始まる三分前にはなんとかデータを完成させたので、厳密に言えばぎりぎりセーフ、なのだけれど。でも問題はそこじゃない。任された仕事を忘れていたことが問題なのだ。会議前までに仕上げておいてくれ、と昨日帰る前に頼まれて、明日の午前に済ませようという決断を下した昨日の自分を殴りたい。そのまま残って終わらせればこんなことにはならなかったのに。それに推敲する時間が無かったために中身はなんとか日本語として成り立っているという程度の翻訳で、普段のそれからすれば本当に完成度が低い。通じる訳をしなくては翻訳とは言えないと思う。ひたすら先輩や上司に頭を下げると、ここにある溜まりに溜まった資料を片付けに資料室まで行って来い、と命じられてしまった。それで許してくれようとしているのだから、ラッキーと心の中で喜んでお茶の一つや二つ淹れて回れば良かった(良かったのかはわからない)のだけど、罪悪感と自分への失望感に、もう全身が鉛のように重たくなってしまったのだった。
少し埃臭い資料室の中で一人、ダンボール一杯に乱雑に詰め込まれたファイルのラベルをチェックしながら、元あったところに戻していく。頭を使わない淡々とした作業だからこそ、余計に先ほどのミスが脳裏をぐるぐると回ってしまう。なんで忘れていたんだろう。本当に情けない。普通パソコンの画面に貼ったものを見逃す?いっつも見ている画面なのに?それすらも忘れてしまうなら、どこにリマインドすれば良いのだという話だ。いっそのことアラームでもセットしようか。いや絶対、うるさいぞと一喝されるに違いない。
そういえば小学生の頃、次の日学校に持っていくから忘れないように、と給食当番用の白衣セットを玄関に置いて寝たことがあったっけな。でも結局忘れて学校に行って先生に怒られたっけな。ああそうだ、中学生の時もあった。一時間目の体育がプールだからと制服の下に水着を着て、下着を忘れないようポーチに入れたものをドアノブに提げていたのに、悲劇を招いてしまったっけな。あれ、私何も成長してないのでは。ちがう、こんなにだめな大人になる予定ではなかった。もっとこう、バリバリ働くかっこいいキャリアウーマンみたいになる筈だった。ポケットにお菓子を詰められてパンパンにさせる人間になる予定ではなかったのに。
小さなミスが大きな事態を呼ぶケースだって世の中には沢山ある。自分の首を締めないためにも、ミスを起こさないよう気を引き締めねば。困るのは自分じゃなくてチームだ。先輩たちの足手まといにはなりたくない。役に立つ人間として認めてもらいたい。そう思ったら、自分のミスの情けなさに鼻の奥がじんじんとしてきて、目頭が熱くなった。思わず下を向いてしまった。泣くな泣くな泣くな。でもそう思えば思うほど、涙がどんどんこみ上げてくる。瞬きをしたら絶対に零れてしまう。かっこわるい。情けない。唇をぐっと噛み締めたけれど涙は引いてはくれなくて、結局それらは床への短い落下旅行へと旅立ってしまった。
ああ。泣いてしまった。それを靴の裏で消そうとしたら、「なにがあったんだ」と声をかけられた。いつ入ってきたのか全く気が付かなかったけれど、この声の主をよく知っていた。どうしてこういう時に遭遇しちゃうかなあ。この前は一週間ニアミスすらしなかったのに。
綺麗な舛花色の硝子玉が、普段はあまり見せない焦りの色を浮かべてぎょっとこちらを見ている。見られたくないところを見られてしまった、と急いでファイルを棚に戻して涙を拭こうとしたら、案の定彼が近付いてくるので、「なんでもないです、目にごみが入っただけです」と牽制するように言う。にもかかわらず、「それぐらいで鼻まで赤くしてだみ声になる奴があるか」と言われて顔を覗き込まれてしまった。はあ、全く持ってその通りです。なんでもないことなかったんですよ。ぐずんと鼻を啜ったら、彼は何か言いたげな顔をしていた。書類整理なんて大概が雑用か軽い罰だ。こんなところで泣いてたのだから、その理由を察するぐらい彼にとっては難しくもなんともなかったに違いない。だから、「励ましたら、怒ります」と先に予防線を張ってしまった。あれはいくらでも防ぎようのあるミスだっただけに、そんなこともある、とか次また頑張ればいい、とかそんな励ましの言葉は今一番言われたくなかったのだから。
どうにも気まずい空気を作り出してしまったと彼に背を向けてしまうと、頭のてっぺんに何かがふわりと乗せられた。なんだろうこれ、と何が起きたのか分からないでいると、「そんな顔で戻って来られたら迷惑だろ」という言葉とともに、ふわりとしたものの上に彼の大きな手のひらが乗っかって、気が付いたら数回ぽんぽんと頭を優しく叩かれていた。
おそるおそるその正体を掴むために、頭上に乗るものに触れたならば。それはハンカチだった。ハっとして彼の方を振り返ると、彼は一つのファイルを小脇に抱えて、資料室を出ようとしていた。降谷さん。彼の名前を呼びたかったのに、かすれた喉のせいでうまく言葉を紡ぐことができなかった。バタンとドアが閉まって、また一人の静かな時間がやってくる。そっとハンカチに視線を落としたら、チェック柄の隅に甲冑の馬に跨る騎士のマークが見えた。コットン製で滑らかな触り心地のそれに、自分の涙を吸わせるのはなんだか少し気が引けてしまったけれど。

(・・・ふるやさんの匂いがする)

そしてまたぐすんと鼻を啜る。言葉にはできない。でもあの人の匂いがする。安心する。心が落ち着く。瞼を閉じて、柔らかな布地に優しい彼の掌を重ねてふと気が付いた。

(あれ、わたし、いつの間にあの人の匂いを覚えたんだろう)












(2017.6.24 kurzgeschichte=小話)      CLOSE